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反乱軍鎮圧のため芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(二・二六事件)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

二・二六事件と五・一五事件の違いをまとめました~実行犯とその結果

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昭和十一年(1936年)2月26日、その名の通りの【二・二六事件】が発生しました。

日付がそのまま名称にされる――そんな特徴的な事件からして、同時にもうひとつアタマに浮かんできますよね?

そうです。
五・一五事件】です。

ということで本日は【二・二六事件と五・一五事件】を比較することによって、両者を効率的に把握してみましょう。

 

名前が似ているだけで共通点は少ない

実は二・二六(1936年)と五・一五(1932年)という2つの事件は、共通点のほうが少ないです。

「軍人が起こした」ことと「庶民の生活改善が目的に掲げられた」ぐらいのもので、実行犯達が所属していたところから当日の流れ、処罰までが全く違います。
ここを最初に頭に入れておくとわかりやすいかもしれません。

共通の背景としては、当時の日本がとんでもない不況だったことがあげられます。
どのくらいだったかというと、金融恐慌・関東大震災の上にアメリカ発の世界恐慌まで食らってしまい、にっちもさっちも行かないほどの状態でした。

さらに冷害による凶作と昭和三陸地震(1933年)までくらってしまった東北地方の農村部では、生活のためやむをえず娘を人買いに売り、それでも食料が足りず欠食児童が多発するなど、江戸四大飢饉に匹敵する事態だったといいます。

もちろん政府も黙って見過ごしたわけではありません。
輸出等により一度経済は持ち直したのですが、今度は欧米諸国からやっかみを買って市場から追い出されてしまいます。イチ抜けが気に食わなかったんでしょうね。

そこで仕方なく台湾や満州国など、当時の身内で貿易を始めたのですが、すぐに経済が完全回復するはずもなく、効果はこれから出る……という状況でした。

五・一五事件で襲われることになる犬養毅元首相/wikipediaより引用

 

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第一次世界大戦後に五・一五事件

さらに軍にとっては切実なことに、軍事費が削られることになります。

ヨーロッパ諸国が第一次大戦の反省から
「皆で軍隊を減らせば、あんな戦争はもう起こらないよね?」
という情勢になったためでした。

日英同盟により戦勝国側に乗っかっていた日本も応じざるをえず、まず海軍の軍縮について国際会議が開かれます。

そして条約が結ばれることになったところ、この交渉に当たった日本政府の担当者と海軍の間で意思疎通がしっかりできておらず、海軍から反感をくらってしまいました。

その流れで「今の政府はけしからん」と怒りを燃やしていた
【陸軍と海軍の革新派青年将校】
たちが、当時の総理大臣・若槻礼次郎(れいじろう)を襲撃する計画を立てます。

若槻礼次郎/wikipediaより引用

ところが、若槻は条約締結後の選挙で大負けして退陣。
計画は、頓挫になるかと思いきや、若手将校らは部隊を複数に分けて、次のような襲撃を企てました。

第一組→首相官邸および日本銀行を襲撃
第二組→牧野伸顕内大臣邸を襲撃
第三組→立憲政友会本部を襲撃

さらには各所を襲った後に部隊が合流して警視庁、農民決死隊が変電所の機能を奪い、東京を暗黒化させて軍事政権を樹立しようというものです。
物騒ですよね。

結果、犬養毅首相が襲撃され、命を落としました。

これが昭和七年(1932年)に起きた五・一五事件です。

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞/wikipediaより引用

 

この事件を機に挙国一致内閣へ

この事件、計画自体は物騒ながら、クーデター事件としては手口が稚拙だったと評されております。

というのも、牧野伸顕内大臣邸を襲撃するはずだった第二組は建物内に手榴弾とビラを投げ込むと憲兵へアッサリ自首。
変電所を襲うはずだったグループは、電気知識がなく、何ら効果をあげられるに至っておりません。ど、どうしてそうなった……。

結果的に政権転換を狙うクーデターというより、一時的なテロで終わった感じですね。

実際、事件後は助命嘆願運動が起きたこともあり、実行犯達は数年の禁固刑で済んでいます。
そのくらい世間が政府を恨んでいた状態だったんでしょう。

ただし、この事件を機に日本は挙国一致内閣へと傾き、終戦後まで政党内閣の復活はありませんでした。

 

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二・二六事件「君側の奸」を排除すべし

そして4年の月日が流れ、昭和十一年(1936年)。
この頃、陸軍内では派閥争いが起きていました。

・統制派(陸軍大学校出身のエリートら)
・皇道派(若手将校らを中心とした過激グループ)

統制派としては、皇道派が勝手に派閥を組んでるだけで自分たちはそんな意志はない――という主張もありますが、ともかく事件は皇道派を中心に進んでいきます。

二・二六事件叛乱軍のメンバー/wikipediaより引用

彼らの主張はこんな感じです。

・政官財界の汚職を正すべし
・労働者の困窮を改善すべし
(特に東北地方農村部の不況が酷い)
・政党政治の打破
・資本家の横暴を許すべからず

中でも大きな主張だったのが
・天皇陛下の「君側の奸」を排除すべし(天皇親政を推し進めるべし)
というものでした。

簡単に言うと、こうなります。

「いつまでたっても市民の生活が良くならないのは、政治家と金持ちが自分のことしか考えていないからだ! きっと陛下のお側にワルモノがいて、陛下のお慈悲が下々に伝わっていないに違いない!」

そしてその主張はいよいよ実行されることになるのでした。

 

1,500名らのメンバーが実行へ

二・二六事件の始まり、1936年2月26日――当日、行動に移したメンバーは以下の通りです。

・将校20名
・元将校2名
・准士官1名
・下士官88名
・兵1357名

ざっと見積もって1,500名ほど。

彼等は、総理大臣の岡田啓介(無事)や蔵相・高橋是清(死亡)、内大臣の斎藤実(死亡)らを襲撃すると、政治や軍の中心地となる永田町や三宅坂一帯を占拠し、クーデターへと邁進します。

高橋是清(左)と斎藤実(右)/wikipediaより引用

肝心の天皇陛下は、どう思われたか?

これが大きな問題で、天皇は実行犯に対して激怒し、
「朕(ちん・天子の一人称)が股肱の老臣を殺戮する者に許しは必要ない!朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」(口語訳)
と憤っていたと伝わります。

そうです。
事件を起こした部隊が「君側の奸」として襲った人物は、天皇陛下が最も信頼していた人物でした。それが殺されて許されるはずがありません。

立憲君主の大原則である「君臨すれども統治せず(=政治に口出ししない)」を貫いていた昭和天皇が、初めて自らの考えをはっきり表した発言でした。

これにより昭和天皇の意向を理解した陸軍や警察は、襲撃犯一派を反乱軍として扱い、戒厳令を敷いた上で鎮圧に当たることをに決定。
天皇親政を掲げてコトを起こしながら、その天皇に否定される――二・二六事件の実行部隊に拠り所はありませんでした。

事件直後に反乱軍が支配する半蔵門/wikipediaより引用

 

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日中戦争の勃発など戦火の拡大に

もちろん問答無用で鎮圧すれば被害は拡大するばかり。
各上官が説得に当たったりラジオで投降を呼びかけたり、剛柔両面からの解決を図っています。

例えば「兵(上等兵・一等兵・二等兵)は原則として全員無罪」とし、主に将校らに責任を負わせることになります。

二・二六事件が解決したのは発生から一週間後後、3月4日のことでした。

乱が終わり、帰順する下士官兵たち/wikipediaより引用

首謀者たちは拳銃自殺した者、逮捕され裁かれた者・数十名が有罪となり、それぞれ違った結末をたどっています。
兵卒の多くは元いた部隊に戻りましたが、参加しなかった上官から絞られた人もいたとか。

戒厳令は、実行犯たちが処刑される数日後の7月18日まで続きました。

事件としては一応終わったものの、二・二六事件は実行犯達も予測していなかったであろう悪影響を残します。

まず皇道派の軍人たちの多くが左遷となり、主流である統制派が実権を掌握。
政治的な発言力も増していき、それが日中戦争の勃発など戦火の拡大に繋がったとされます。

そして敗戦のその日まで色濃く影響を残したと言いますから、二・二六事件と五・一五事件に直接的な因果関係はありませんが、日本の行く末を決めるやはり大きな契機となったと言えるでしょう。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典
五・一五事件/wikipedia
二・二六事件/wikipedia

 



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