毛利家を支え勇将として名高い吉川元春/wikipediaより引用

毛利家 その日、歴史が動いた

毛利三本の矢次男・吉川元春がアツい! 11才で初陣を飾った勇将と奥様に注目

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【人物概略:吉川元春

1530-1586年。
父は毛利元就、母はその正室・妙玖(吉川国経の娘)。

元就の次男として生まれると、若くして戦場を駆け回り、
・吉田郡山城の戦い(1540-1541)
厳島の戦い(1555)
・石見銀山の占領(1556)
・出雲遠征(1562-1566)
などで活躍。
毛利家躍進の大きなキッカケとなった厳島の戦いでは、陶晴賢の家臣・弘中隆兼を倒す武功も挙げている。

1550年に吉川家の跡を継ぐと、弟・小早川隆景の小早川家と共に「毛利両川」として名を馳せ、強敵・尼子家を降すときにも中心的な役割を担っている。
※その後も、山中鹿之介らの活動によって復興を願う尼子の残党と戦い続けた

1571年に父・毛利元就が亡くなった後も引き続き毛利家の合戦を主導。
織田信長に京都を追われてやってきた足利義昭も受け入れると、以降、豊臣秀吉との戦いが続いた。

しかし、1582年に本能寺の変が勃発した後は、備中松山城での和睦を受け入れ、秀吉のことを嫌って、その年に自身は引退。
息子の吉川元長に家督を譲っている。
秀吉には、「かつえ殺し」でお馴染みの鳥取城も落とされ、配下の吉川経家を亡くしており、恨みが募っていたのであろう。

後に秀吉からの強い要請もあって九州征伐に参戦はしたが、豊前小倉の陣中で病没。
享年57。

 

飛びすぎる2本目の矢 吉川元春

天文十二年(1543年)8月30日、後の吉川元春が14才で元服しました。

毛利元就の次男ですが、元服後に吉川家へ養子に行ったので、一般的に彼を呼ぶときに「毛利元春」ということは少なくなっています。

吉川元春は、毛利元就でお馴染み「三本の矢」の話で出てくる三兄弟の真ん中の人です。

「三本の矢」のエピソードは創作が濃厚ですが、元春はかなり勇猛な性格であり、元服前の11才(数え)で「父ちゃんオレ戦に出たい!!」と言って無理に初陣してしまうような人物武将でした。

相手は尼子晴久で、吉田郡山城の戦い(1540-1541年)。

ちなみに、徳川家康配下の最強武将・本多忠勝が12才での初陣ですから、元春さんのヤバさがわかりますね。

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また元春は
「オレ、自分の嫁は自分で決めるから!」
と勝手に縁談を進めてしまうほど、とにかく行動の派手な人でした。

時は戦国時代ド真ん中。

大名やその家族の結婚は当人同士だけでなく、家と家とを結びつけてより戦を有利に運ぶための手段であります。

にもかかわらず自分一人で決めてしまったのですから、ヘタな相手だったら元就もキレていたことでしょう。

しかし、実際はそうなりませんでした。

 

家臣・熊谷信直の娘と結婚したい

元春の結婚相手は、家臣・熊谷信直(くまがいのぶなお)の娘でした。

家臣の娘さんを妻にすることは割と普通のことです。

しかし。
この娘さんの口コミが大変よろしくなかった。

「あのお嬢さん、顔さえ良ければねえ……」
「あんな顔の人はこの世に二人といないだろうよ」
などなど、今なら確実に炎上しそうなほど「お顔が残念」という評判が立てられていたのです。

これには元就も他の家臣たちも首を傾げざるをえません。

元就「ワシ、育て方間違えたかな」
家臣A「いやいや殿、元春様にもきっと何かお考えがあるんですよ。多分……」
元就「じゃあお前ちょっと聞いてきてくれない?」
家臣「いやいや殿、元春様は怖いので私はお断りします」

なんてやり取りがあったかどうかは不明ですが、ともかく元就からの使者が元春のもとへ向かいました。

吉川元春館を正面石垣から

 

「俺の嫁がブスだと? だがそれがいい」

「かくかくしかじかなんですけど、元春様はどのようにお考えで?」

使者がそう尋ねると、元春は意外な答えを返します。

「いや、オレも別にブス専ってわけじゃないんだよ。
でもさ、女は顔だけじゃないじゃん? 家の中をまとめてもらうのに顔は関係ないし。
それにさ、美人だったら浮気とか家臣の視線とか気になっちゃうけど、不美人だったらそんなことないじゃん?
信直だって『ウチの娘はブサイクって言われてるから、嫁の貰い手がないんじゃないか』って心配だろうしさ、そこでオレがもらえば喜ぶだろ?
これなら一石三鳥じゃん!?」(超訳スンマセン)

元春は元春なりに、きちんと「大名の嫁取り」を理解してのことだったのです。

これには元就も
「さすがワシの息子じゃな」
と納得し、希望通り元春はこの娘をもらうことができたのでした。

もっとも、この「わざとブサイクな嫁をもらった」という話は諸葛亮や明智光秀、高橋紹運(立花宗茂のお父さん)、近藤勇など、様々な人に似たような話があるので、創作の可能性も高いのですが。

実際に不美人だったかどうかはハッキリしておりません。

一説には、疱瘡(天然痘)を患ったことがあったため、その痕が顔に残ってしまい、噂が広まっただけの可能性もあります。
明智光秀の妻である明智煕子についても同様の話があり、戦国エピソードとしてはいかにもという感じはしますね。

まぁ、それだけ当時の疱瘡が怖かったということでもあるんですけど。

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側室も持たず4男2女の子宝にも恵まれ

いずれにせよ新庄局(しんじょうのつぼね)と呼ばれるようになったこの妻が、本当によくできた奥さんだったのは確かなようです。

夫婦仲も円満で、4男2女の子宝にも恵まれています。

何より、元春が生涯側室を持たなかったのが何よりの証拠でしょう。

いくら正室でも、ふさわしい性格と能力がなければ、側室に取って代わられてしまうことは珍しくありません。

「元春のヨメは男みたいな手紙を書くのう」

なんて元就に苦笑されたこともあるそうなので、大人しいタイプではなかったのでしょう。
そのあたりも元春とは気が合ったのかもしれません。

 

弟の隆景と共に毛利家をもり立てる

さて、これだけズバズバ決断するタイプだと、元就やお兄さんの毛利隆元に反抗しそうなものですが、元春はそうはしませんでした。

特に元就や1本目の隆元(このお兄ちゃんは元就より先に死亡)が亡くなってからは、甥っ子で毛利家の当主・毛利輝元(隆元の息子)を支えて守り立てます。
3本目の弟・小早川隆景と一緒に盛りたて、同家を残したのですね。

この頃には織田信長の配下だった豊臣秀吉が、中国地方へと侵攻してきており、アチコチで奮戦。

信長の死後は、毛利家ともども秀吉に臣従することになりますが、元春は「オレはあんなサルに仕えたくない!あとは頼んだぞ息子!」と言って隠居してしまいます。
毛利氏は鎌倉時代の大江氏から枝分かれした由緒ある家でしたので、名家のプライドが許さなかったのでしょう。

そんな元春の最期は、秀吉の九州征伐のとき。

既に隠居していたにも関わらず、秀吉の強い要請と、それを受けた隆景や輝元の説得により出陣しました。

そして出征先の小倉城(現在の北九州市)で息を引き取ります。
このとき既に病気を患っていたそうですが、最期まで戦場に立ちたかったのかもしれません。

強弓・元就から放たれた2本目の矢は最期の最後まで猛きヤジリとして、戦国の世を駆け抜けたのでした。

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【参考】
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon link
『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon link
国史大辞典
吉川元春/wikipedia

 



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