東京奠都

明治天皇の東京行幸を描いたフランス新聞雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1869年2月20日刊行号内の挿絵/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

東京奠都で明治天皇お引越し TOKYOは「東の京都だから東京」はマジ

冠婚葬祭ほどではないにしても、人生でそこそこ大掛かりなイベント・引越し。

一般庶民でも大変なのですから、これが国の根幹に関わるようなお偉いさんとなれば、べらぼうな手間がかかります。

本日はその最たる例であろう、お引越しのお話です。

明治元年(1868年)9月20日は、東京奠都のため、明治天皇が初めて東京へ向かって出発した日。

「とうきょうてんと」と読みます。

実質的にはこのときから首都は東京扱いになっていたようですが、それまでには紆余曲折がありました。

そもそも戊辰戦争の真っ最中ですしね。

さっそく事の経緯を見ていきましょう。

 


東京奠都になったのは大阪だと反発が凄まじかったから

倒幕の後、明治新政府の中で“都”についてはこう考えられました。

「新体制になったことを明らかにするために遷都が必要だ」

当時は東日本の政情がまだ不安定だったため、第一候補は大阪。その予告的な意味で大阪行幸(天皇のお出かけ)が決まります。

しかし、いざ蓋を開けてみると、遷都を予感した公家や京都市民が大反発し、大阪遷都は白紙となりました。

そんなタイミングで江戸城無血開城が成立したため、

「やっぱり大坂よりも江戸に都を移したほうがいいな。でないと、将軍を失った江戸には人が住まなくなってしまう」

という意見が出ました。

それでスンナリ決まり……はしませんでした。

公家や京都市民は「まだ戊辰戦争も終わっていない危ないところへ陛下を行かせるわけにはいかないでしょう!」と大反発したのです。大阪よりずっと遠いですしね。

そこで遷都派のお偉いさん方が考えたのが、以下のように柔軟な次善策でした。

「今まで皇室と縁のなかった東日本を治めるには、やはり陛下に江戸へ移っていただいて人心をつかむことが大切である」

「江戸を”東の京都”とし、いずれは二つの都を鉄道で繋ぐ」

かくして東京奠都が決まったのです。

 


総勢3,300人を引き連れ東京へ

東京奠都の骨子が決まり、次に徳川家の駿府移転も決定。

いよいよ明治天皇のお引越しが実行に移されることとなりました。

まずは正式に江戸を東京と改称する詔書が出され、”東の京都”だから天皇が行くことには問題がないのだということを広く知らされます。

実は、この後に明治天皇の”即位の礼”が執り行われています。

戊辰戦争に直接関わることはないにしても、宮中もバタバタしていたことがよくわかりますね。

そして9月20日、明治天皇は公家や護衛の武家たち総勢3,300人を引き連れ、東京へ向かいました。

初日の宿泊地は、現在の滋賀県大津市御幸(みゆき)町で、東海道最大の宿場町として有名なところです。

実はあの大津事件の現場も近かったりします。

大津事件が起こったとき、明治天皇は「あの町でそんなことが起きてしまったのか」という点でも驚いたでしょうね。

事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(1891年・上野彦馬撮影)/wikipediaより引用

ちなみに上の写真は、大津事件の前に長崎で撮影されたニコライ皇太子です。

注目していただきたいのは、撮影者でして。

日本初のプロカメラマンと言われ、あの坂本龍馬の撮影にも関わっていたと言われる上野彦馬です。

以下に詳細記事がありますのでよろしければ併せてご覧ください。

上野彦馬
あの龍馬の写真にも関わった 上野彦馬は日本人初のプロカメラマン

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大きく脱線してしまいました。

話を東京奠都へ戻しましょう。

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