今年は1月13~14日にかけて大学入学共通テストが実施されましたが、昨年(2023年)、こんな誤植があったのを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。
世界史で「科挙」という文字が「科拳」と記されていたのです。
誤植やミスは人間だから仕方ないものですが、それにしても日本で最もメジャーな受験テストで間違えるには、あまりにタイミングが悪いというか、皮肉というか。
ご存知のとおり「科挙」は官僚を採用するための難関試験。
歴史的には、とにかく合格が難しいテストとして知られながら、中国、朝鮮半島、ベトナムで導入されてきました。
では、実際にどれほどキツかったのか?
その実態を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
科挙以前の人材採用
能力のある人物を、ガンガン取り立てて出世させたい!
そう思うのは、古今東西、人類共通の願いでございます。
もちろん、単に能力が高くても、人としてはダメ人間で、不倫だの贈収賄だのやらかしたりとか、そういうのは困ります。
人材登用にはコネやしがらみも邪魔します。我が子を重要ポストにつけたい、という願いも人類共通の願いなわけで。
長い中国の歴史では、ともかく有用な人材発掘に智恵を絞ってきました。
※以下は曹操の考察記事となります
規格外の英雄その名は曹操!乱世の奸雄は66年の生涯で何を夢見ていたか?
続きを見る
「才能があれば不倫しても贈収賄するようなクズでも俺は構わない。出世のために奥さんを手に掛けた鬼畜でもいいと思う。ともかく才能さえあればいいから! 才能ある奴、カモンカモン! 役人たちもどんどん推挙して」
そんな“唯才是挙”(才能さえあればリクルート)の「求賢令」を出しておりました。
才能があるのに仕官をしぶった司馬懿に対しては
「俺に仕官するのと今すぐ逮捕されるの、どっちがいい?」
と究極の二択を突きつけて強引にゲットしたほどです。
ボケ老人のフリして魏を滅ぼした司馬懿が恐ろしい~諸葛亮のライバルは演技派
続きを見る
一方、曹操の子・曹丕は「九品官人法」を制定しました。
これは実力よりも家柄を重視する制度で、
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」
(名家の出ならば貧乏にならないし、名家以外の出なら出世は無理)
という状態を産み出してしまいます。
これではイカン。
家柄に関係なく、実力者を登用しよう。
というわけで隋の文帝から始めたのが【科挙制度】でした。
ここから先は、読者の皆さまが受験生気分になるような、
「科挙を目指す男性の一生涯」
目線で試験の手順を追ってみたいと思います。
科挙合格のための戦いは生前から始まっている
かつて中国には「五子登科」という吉祥画(縁起物の絵)がありました。
絵の意味は「五人の息子を授かり、その子が全員科挙に合格しますように」というものです。
ハードルが無茶苦茶高い、だからこその験担ぎですね。
中国の花嫁は、この願いをこめた絵を持参し、相手の家に嫁ぎました。
身ごもったらば、まずは「胎教」開始です。
不吉なものを見たり、刺激強いものを食べないようにしたりして、無事男児を授かるよう祈り続けるのです。
そして、いざ男児が生まれますと「及第状元」と刻んだ銭をバラ撒いたり、絵を飾ったりして祝います(百度で検索した「及第状元」の絵)。
かつては弓を射して魔除けの行事もしておりましたが、科挙の普及後は「武より文」の重視で廃れていきます。
この慣習は、日本の武家に残りました。
早い場合は3才から英才教育スタート!
子供が満5才、今でいうところの3才にもなると、早い家庭では教育がスタートします。
といっても、科挙の試験科目である古典文学偏重です。
特に出来の良い天才少年向け「童科」というジュニア版科挙も宋代にはありましたが、どうにも童科出身者はのちに伸び悩むということで、次第に下火になりました。
遅くとも8才、小学校一年生くらいから本格的な勉強が始まります。
裕福な家では家庭教師をつけて厳しい特訓開始。
中流以下の場合は、学校に入り学びました。
こうした科挙特訓校の教師や、参考書の著作者は、自身もかつて科挙を目指したものの、突破できなかった元受験生たちでした。
現在の中学三年生程度、15才あたりまで続けられます。
※続きは【次のページへ】をclick!