悲喜こもごもがハンパじゃない科挙の合格者発表/Wikipediaより引用

中国

アナタも「科挙」を体感してみません? 中国エリート官僚の受験地獄が凄まじい

間もなく受験を意識する冬へ。

受験生の皆様はいよいよ気持ちを引き締められているでしょう。

本サイトの読者様の中にも、過去に受験地獄を経験した方もおられるはずで、

『エナジードリンクを飲みながら頑張ったあの日には、二度と戻りたくない』

なんて、未だにその悪夢を思い出してしまう方もおられるかもしれません。

しかし、現代人の試験地獄は、まだまだ甘い。

なんて生意気言ってスミマセン。

いや、もう「科挙」の歴史を知ってしまうと、それはもう想像を絶するほどで……。

中国および朝鮮半島、ベトナムでは、官吏登用試験に長いこと「科挙」というシステムを導入しておりました。

では、実際にどれほどキツかったのか?

その実態を振り返ってみましょう。

 

科挙以前の人材採用

能力のある人物を、ガンガン取り立てて出世させたい!

そう思うのは、古今東西、人類共通の願いでございます。

もちろん、単に能力が高くても、人としてはダメ人間で、不倫だの贈収賄だのやらかしたりとか、そういうのは困ります。

人材登用にはコネやしがらみも邪魔します。我が子を重要ポストにつけたい、という願いも人類共通の願いなわけで。

長い中国の歴史では、ともかく有用な人材発掘に智恵を絞ってきました。

わかりやすいのが『三国志』の曹操でしょうか。

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「才能があれば不倫しても贈収賄するようなクズでも俺は構わない。出世のために奥さんを手に掛けた鬼畜でもいいと思う。ともかく才能さえあればいいから! 才能ある奴、カモンカモン! 役人たちもどんどん推挙して」

そんな“唯才是挙”(才能さえあればリクルート)の「求賢令」を出しておりました。

才能があるのに仕官をしぶった司馬懿に対しては

「俺に仕官するのと今すぐ逮捕されるの、どっちがいい?」

と究極の二択を突きつけて強引にゲットしたほどです。

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一方、曹操の子・曹丕は「九品官人法」を制定しました。

これは実力よりも家柄を重視する制度で、

「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

(名家の出ならば貧乏にならないし、名家以外の出なら出世は無理)

という状態を産み出してしまいます。

これではイカン。
家柄に関係なく、実力者を登用しよう。

というわけで隋の文帝から始めたのが【科挙制度】でした。

ここから先は、読者の皆さまが受験生気分になるような、

「科挙を目指す男性の一生涯」

目線で試験の手順を追ってみたいと思います。

 

科挙合格のための戦いは生前から始まっている

かつて中国には「五子登科」という吉祥画(縁起物の絵)がありました。

五子登科/Wikipediaより引用

絵の意味は「五人の息子を授かり、その子が全員科挙に合格しますように」というものです。

ハードルが無茶苦茶高い、だからこその験担ぎですね。

中国の花嫁は、この願いをこめた絵を持参し、相手の家に嫁ぎました。

身ごもったらば、まずは「胎教」開始です。

不吉なものを見たり、刺激強いものを食べないようにしたりして、無事男児を授かるよう祈り続けるのです。

そして、いざ男児が生まれますと「及第状元」と刻んだ銭をバラ撒いたり、絵を飾ったりして祝います(百度で検索した「及第状元」の絵)。

かつては弓を射して魔除けの行事もしておりましたが、科挙の普及後は「武より文」の重視で廃れていきます。

この慣習は、日本の武家に残りました。

 

早い場合は3才から英才教育スタート!

子供が満5才、今でいうところの3才にもなると、早い家庭では教育がスタートします。

といっても、科挙の試験科目である古典文学偏重です。

特に出来の良い天才少年向け「童科」というジュニア版科挙も宋代にはありましたが、どうにも童科出身者はのちに伸び悩むということで、次第に下火になりました。

遅くとも8才、小学校一年生くらいから本格的な勉強が始まります。

裕福な家では家庭教師をつけて厳しい特訓開始。

中流以下の場合は、学校に入り学びました。

こうした科挙特訓校の教師や、参考書の著作者は、自身もかつて科挙を目指したものの、突破できなかった元受験生たちでした。

現在の中学三年生程度、15才あたりまで続けられます。

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