シャーロック・ホームズ像/photo by Siddharthkrish wikipediaより引用

イギリス

だからシャーロック・ホームズは19世紀の英国に生まれた! 名探偵、渇望の時代

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シャーロック・ホームズシリーズの記念すべき第一作『緋色の研究』(1887年)の発表から数えて、130年が過ぎました。

最近は現代版ホームズドラマ『SHERLOCK』シリーズも人気を博しており、ここでひとつ考えたいことがあります。

「なぜ約130年前にシャーロック・ホームズが誕生したのか?」

答えはちょうどその頃、ミステリー小説がイギリス庶民の娯楽として定着していたから、ということになるでしょう。

それでは「その前にはミステリはなかったのか?」ということになりますが、実はこれには、近代化に伴う「犯罪捜査の変化」が要因としてあります。

 

真犯人に代わり、ならず者やユダヤ人等が処刑されていた

ミステリ小説で重要な要素は、アリバイであり、凶器であり、トリックです。いかにあやしい人物がいようと、犯罪にいたる動機があろうと、証拠がなければ裁くことはできません。

この大前提は、実のところ近代以降、身分制度の変動とともに確定されたものです。
つまり、それ以前はさしたる証拠もなしに逮捕および処刑をされていた、ということになります。逆に犯罪が行われたあきらかな証拠があるにも関わらず、王侯貴族であれば看過されることもありました。

また、放火や連続殺人のような凶悪犯罪が起きた場合、実際に犯人かどうか不明であるにも関わらず、周囲から煙たがられているならず者、ユダヤ人、外国人労働者が逮捕・処刑されました。
犯人を裁くというよりも、大衆が抱く事件への不満や不安を解消するための、スケープゴート的な裁きでした。大衆は公開処刑される犯人を見て、自分たちが所属する地域社会から危険な異物が排除されたと安心していたわけです。

しかし時代が近代に向かう中、そうした原始的な裁きに人々が疑問を感じるようになります。

1811年、ロンドンの幹線道路であるラトクリフ街道で、衝撃的な事件が起こりました。
2家族七名が立て続けに惨殺、赤ん坊まで手にかけられるという恐ろしい犯行でした。

 

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ラトクリフ街道殺人事件に震え上がるロンドン市民

この「ラトクリフ街道殺人事件」に、ロンドン市民は震えあがります。
しかし目撃証言や凶器が残されていたにも関わらず、捜査は極めて杜撰でした。

やがて、さしたる証拠もないままある船員が容疑者として逮捕されました。その容疑者は拘束から四日後に自殺してしまいます。事件は一件落着したとばかりに、容疑者の死体はさらし者にされ、心臓に杭を打ち込まれて葬られました。
もしこれが18世紀、17世紀以前の出来事ならば、ロンドン市民もこれで一安心と胸をなでおろしたかもしれません。

しかし当時の人々は、事件の経過に納得しませんでした。
容疑者は、犯行自白前に自殺して、処刑されたわけではありません。そもそも犯行現場に複数人の足跡が残されていたというのに、これで解決するはずはない、と疑ったのです。ロンドン市民のみならず、郊外の人々まで恐怖を感じていました。

イギリスの人々はこう考えました。
「フランスのような近代警察が必要ではないか? パリには優れた警察があるらしい」

フランスには、このときすでに近代的な警察組織がありました。フランス革命で頭角をあらわし、ナポレオンの腹心であったジョゼフ・フーシェが、その天才的な頭脳をもって近代警察を組織していたのです。

そして1829年、ついにイギリスにて首都警察法が成立、ロンドン警視庁、通称スコットランドヤードが設置されます。
更に、そこで登場したのが「刑事」という職業です。
彼らは科学的、合理的な犯罪捜査を行うエキスパートでした。

刑事は捜査に必要とあらば、貴族の屋敷に踏み込むができます。
労働者階級出身である刑事が貴族の屋敷に踏み込み、やんごとない身分の人々を尋問するとは、当時の人々にとっては画期的なことでした。
下層階級の人間が、上流階級の屋敷やプライベートを踏み込むわけですから、ゴシップに飢えた庶民にとっては娯楽の種。一方で上流階級にとっては嘆かわしい時代の変化と言えました。

 

刑事の推理に世論が猛反発! 容疑者は、やっぱり犯人だった

1860年、ロード・ヒル・ハウスという屋敷で、その家に住む四歳のフランシス・サヴィル・ケントが、胸を刺された遺体で見つかるという事件が起こりました。

上流階級の屋敷で起こった、忌まわしい事件。社会の注目を集めるのに十分です。
人々は事件報道をむさぼるように読み、多くの作家がこの事件をモチーフとした作品を書きました。

固唾を呑んで人々が見守る中、ウィチャー刑事は粘り強い捜査で真相に迫ります。黎明期の刑事の中でも才知にあふれた彼の捜査は、意外な結論を出しました。
ウィッチャーは、被害者の姉である16歳の少女、コンスタンス・ケントが犯人と推理したのです。

しかし世論はこれに納得するどころか、大いに反発します。
「まだ16歳の、しかも被害者の姉が犯人とは! いくら何でも酷いでっちあげだ!」

マスコミは大々的にコンスタンス擁護キャンペーンを展開。結局彼女は逮捕されたものの、裁判を待たずに釈放されてしまったのでした。

労働者階級出の刑事ふぜいが、上流階級の令嬢を犯人と断定するなど、当時の人々には許せないことでした。
もしも冤罪だったらどうするのか、善良な少女の人生が台無しになったらどうするのか、というわけです。
ウィチャーは失意のままロンドンに戻りました。

ところがそれから5年後、ケントは聖職者に自分が真犯人と告白。世間はウィチャーの推理の正しさに驚愕することとなったのです。

 

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近代捜査とジャーナリズムにより犯罪がエンタメ化

犯罪捜査を見守り、推理することは、知的ゲームとして庶民の間に根付き始めました。
こうした近代犯罪捜査と同時に発達したのが、娯楽賭しての読書やジャーナリズムです。おどろおどろしい殺人事件の記事は、庶民にとってはたまらなく興味をそそられるものでした。

ヴィクトリア朝に生きる人々は興味津々で犯罪記事を読みあさり、殺人現場に押し寄せては「幽霊が出るかもしれないよ!」「血しぶきがここにも飛んだかな!」なんて盛り上がっていたのです。
殺人をモチーフにした歌を歌ってはしゃいだりなんかして。不謹慎ですね。

イギリス人って残酷で悪趣味だなあと思うかもしれませんが、これは明治時代の日本でも同様でした。
人々はどぎつい錦絵で描かれた犯罪場面に興奮し、河内十人斬りという凶悪殺人が起こると、犯行内容を河内音頭の演目に取り入れたほどです。高橋お伝、夜嵐おきぬ、花井お梅といった女性殺人犯は「毒婦」と呼ばれ、小説の格好のネタでした。

明治時代最後の斬首刑「高橋お伝」の切なすぎる一生とは?




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近代犯罪捜査とジャーナリズムの隆盛により、犯罪がエンタメしたわけですね。そもそも現代人とて、犯罪を報道するワイドショーやゴシップ雑誌、インターネットサイトに夢中なわけでして。人間というものの哀しい本性ですね。

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