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酒場を描き、酒に溺れ…… 画家ロートレック 苦闘の生涯

 

「自分との闘い」というと厨二な雰囲気がそこはかとなく漂いますが、案外この状態になっている人は多いのではないでしょうか。例えばダイエット中のデザートの誘惑とか。
意志の力で勝てれば……って、現実にはそう簡単には行きませんよね。だからそもそもツラいワケで。

そしてそれは、類まれな才能を持った人でも同じことが言えるかもしれません。本日はその中でも、身近な人につけられた傷に悩んだ芸術家のお話。

1864年(日本では幕末・元治元年)11月24日は、画家のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが誕生した日です。
誰もが一度は名前を聞いたことのある画家の一人ですが、意外にもその一生は暗く寂しく、そして短いものでした。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック/wikipediaより引用

 

父親に疎まれ、絵に打ち込む

ロートレックは、9世紀から血筋が続く由緒正しい貴族の家に生まれました。

しかし、10代前半で両足の大腿骨を立て続けに骨折し、それをきっかけに足の成長が止まってしまったことから、彼の人生に影がさします。

父親は息子を疎むようになり、生涯ロートレックの絵を認めませんでした。
一番身近な同性に認めてもらえなかったロートレックは、絵に打ち込むことで自分の存在意義を作ろうとします。なんだかこの時点でかなり切ない話ですが……。

ロートレックは、モンマルトルの画塾に通い、ゴッホやシュザンヌ・ヴァラドンなど同時代の画家や芸術家と知り合いながら、社交の幅を広げていきました。
彼は芸術家には珍しく(?)、明るく人懐こい性格だったそうなので、ムードメーカー的な面も持っていたのでしょう。

しばらくしてアリスティード・ブリュアンという歌手と知り合い、酒場に通うようになります。

 

日本美術も大好物! 着物姿らしき写真も

「貴族のお坊ちゃまに夜遊びを教えた」なんて言うと不健全なかほりがしますが、これがロートレックに大きな画題を与えました。

理由は違えど、自分と同じように世間から冷たい目で見られている酒場の女性たちに、ロートレックは生きる勇気をもらったのでしょう。よほどしたたかでないと生きていけない世界ですからね。

特にイヴェット・ギルベールという女性がお気に入りで、よく肖像画を描いていました。スケッチ集を献呈したこともあるので、もしかするともうちょっと深い仲だったかもしれませんね。その辺は下衆の勘繰りになるのでやめておきましょう。

多種多様な絵に挑戦しはじめたのも、おそらくは酒場でいろいろな人と出会うようになってからと思われます。
おそらく一番有名なのは油絵の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」ですが、他にもダンスホールなどのポスターの仕事もしており、ポスターを単なる広告だけでなく、芸術作品にした画家でもあるのです。

また、走る馬の絵を描いたり、日本美術の影響を受けたり、石版画に熱中したりと、美術に関する探究心は生涯持ち続けていました。
日本の着物と思われる衣装を着た写真もあるので、日本文化にハマっていた時期もあったようです。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット/Earl Art Galleryより引用

ものによってはアルコール度数89%の酒にハマり……

しかし、酒場通いで強い酒を常飲するようになったことは、重い体調不良の原因にもなりました。

彼が好んでいたのはアブサンというクセの強いリキュールで、最低でもアルコール40%というハードリカーです。これならだいたいウイスキーと同じくらいですが、物によっては89%のものもあるとか……。ちなみに、お酒として認められる中で一番度数がキツイのは、スピリタスというアルコール95%のウォッカです。

ロートレックが愛飲していたアブサンがどの程度の度数だったのかは不明なれど、少なくとも頻繁に飲むようなものではありません。

ユトリロ(過去記事:モーリス・ユトリロ 酒にまみれアルコール依存症に苦しんだ画家人生 【その日、歴史が動いた】)もそうだったように、孤独な芸術家はとかくお酒に走りやすいものなのでしょうね。もしかすると、不眠から逃れるための飲酒だったかもしれません。
現代でも、不眠症対策のための寝酒でアルコール依存症に陥る人は少なくないですし……。その逆もまた然り。

ポスター『ディヴァン・ジャポネ』1892年/wikipediaより引用

 

最期の言葉は、父親に向けて「馬鹿な年寄りめ!」

上記の通り、ロートレックはユトリロの母であるシュザンヌ・ヴァラドンと交流がありました。

もしも彼女を通じて、同じような悩みを持つ彼らが腹を割って語り合えるような仲になれていたら、二人とももう少し晴れやかな気分で人生を過ごせたかもしれません。
しかし現実には、ロートレックはアルコール中毒による幻覚症状に加え、どこからか梅毒ももらってしまい、家族によって強制的に入院させられています。
そのときには既に遅く、退院して一ヶ月ほどで亡くなりました。

最期の言葉は、父親に向けた「馬鹿な年寄りめ!」だったといいます。
表面だけ見ればただの罵倒ですけれども……それだけ、父親に認めてもらいたかったのでしょう。母のもとで死にたい、と最後の力を振り絞って母の家に行ったのに、最期に話しかけた相手は父親なのですから。

普段明るく振舞っていた人がお酒で体を壊し、最後の最後にずっと抱えていたやりきれない気持ちを吐き出した……というのは、聞いている側もやりきれない気持ちになるものです。

ロートレックの父親は、息子にこう言われてどんな気持ちになったのでしょうね。

長月 七紀・記

参考:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック/wikipedia  Earl Art Gallery

 

 



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