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【ロートレック】
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娼館を舞台に描き続ける
1890年代からは、娼館の内部にも注目し始めました。
古今東西、町が賑わえば性産業の需要も高まるもの。
また、すっかり人気画家になったために受けきれないほどの注文が来るようになったロートレックが逃れるには絶好の場所でした。
「木を隠すなら森の中」ならぬ「人を隠すなら人の中」といったところですね。
彼は性的対象ではなく、モデルやステージとして娼婦と娼館を扱い、ときには娼館に泊まり込んで絵を描きました。
中には性病検査中の女性が描かれているものもあるのですが、よく娼婦本人や娼館が許したものですね。
娼婦といえば、客からひどい扱いを受けることも珍しくなく、男性不信に陥ることもままある仕事。
一方で下心なく、自分たちをそのままの姿で捉え、接してくれるロートレックは好ましく映ったのかもしれません。
ロートレックは時折娼婦たちの相談に乗ったり、ラブレターの代筆をしたりもしたそうです。
なんとも不思議な感じがしますが、信頼関係が出来上がっていたんでしょうね。
こうした実地取材から生まれたのが油彩画の数々と、リトグラフ集「エル(彼女たち)」でした。
「エル」のほうは100部限定で出版されたのですが、性的要素が抑えられていたためか、あまり売れず商品としては失敗に終わっています。
ロートレックは「彼女たちも人間なんだぞ。人間同士として接したまえ」と世の中に主張したかったのかもしれませんね。
当たり前のことなのですが、こういった”性”が全面に押し出される場面では、忘れられがちなことでもあります。
しかし、酒場通いで強い酒を常飲するようになったことは、重い体調不良の原因にもなりました。
ロートレックが好んでいたのは「アブサン」というクセの強いリキュールで、最低でもアルコール40%というハードリカーです。
これならだいたいウイスキーと同じくらいですが、中には89%のものもあるとか……。
ロートレックが愛飲していたアブサンがどの程度の度数だったのかは不明なものの、少なくとも頻繁に飲むようなものではありません。
モーリス・ユトリロにも共通しますが、孤独な芸術家はとかくお酒に走りやすいものなのでしょうね。ユトリロもアブサンを愛飲していたとされていますし。
もしかすると、不眠から逃れるための飲酒だったかもしれません。
現代でも、不眠症対策のための寝酒でアルコール依存症に陥る人は少なくないですし……。その逆もまた然り。
ユトリロはロートレックより19歳下なのですが、もしもふたりが近い年代に生まれていたら、お互いに悩みを打ち明けられるような友人になれたかもしれません。
最期の言葉は父親に向けて「馬鹿な年寄りめ!」
ロートレックは1899年頃からアルコール中毒による幻覚症状に加え、どこからか梅毒ももらってしまい、家族によって強制的に入院させられました。
一度は退院し、ボルドーに滞在して劇場に通うなど元気になっていたようです。
しかしまたしても酒に溺れ、最期を悟ったものか、憔悴しながらも母の屋敷へ向かいました。
そして1901年9月9日、母に看取られています。36歳という若さでした。
最期の言葉は、父親に向けた「馬鹿な年寄りめ!」だったといいます。
表面だけ見ればただの罵倒ですけれども……それだけ、父親に認めてもらいたかったのでしょう。
母のもとで死にたい、と最後の力を振り絞って母の家に行ったのに、最期に話しかけた相手は父親なのですから。
普段明るく振舞っていた人がお酒で体を壊し、最後の最後にずっと抱えていたやりきれない気持ちを吐き出した……というのは、聞いていた母も辛かったでしょうね。
ただでさえ、生まれた順番と亡くなってしまう順番が逆になるのは悲しいものですし。
ロートレックの父親は、息子にこう言われてどんな気持ちになったのでしょうか。
その後、母によってロートレックの作品が生誕地のアルビの町に寄贈され、それらがもとになってロートレック美術館が作られました。
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長月 七紀・記
【参考】
杉山菜穂子/高橋明也『もっと知りたいロートレック 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典