宇喜多秀家の子孫が熊本で武士になっていた【新発見!】

関ヶ原の合戦で主力といえば、誰だと思いますか?

東軍なら徳川家康、西軍なら石田三成と答える人が多いと思います。
ところが、前線で戦った兵数では、家康軍は井伊や本多など6000人程度。西軍で最大の兵数は宇喜多秀家の1万6000人でした。
この宇喜多秀家は、最大の動員をしながら「生き残った」珍しい西軍の武将です。
ただ大名としてではなく、犯罪者として、八丈島へ流されたのです。そこには幼い嫡子孫九郎(秀高)と次男も一緒でした。武家の宇喜多は亡んだのです。ところが・・・。

【TOP画像】宇喜多秀家/Wikipediaより引用

 

家臣が男児を連れて豊前国(大分県)まで逃げおおせる

そんな彼の別の息子が武士として存在していたことが、日本史家の磯田道史さんがきょう(28日)の読売新聞でのコラム「古今をちこち」で明らかにしています。 28日はNHKで「歴史秘話ヒストリア」をやっていましたが、全然秘話でない大河ドラマがらみのテーマに過ぎませんが、こちらは本当の秘話(web掲載なし)です。

詳細は図書館でもいって新聞を読んでもらうとして、まとめます。

・宇喜多秀家には、孫九郎らよりも下に2歳の息子(3男?)がいました。
・関ヶ原で負けたことを知り岡山から、家臣が2歳の男の子を豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)まで逃げて、そこで育てられました。
・しばらくして(秀家が亡命先の薩摩で助命が許されたあとでしょうか)、地元の明円寺のお世話で、熊本の細川家に仕官しようとしたが断られた。
・15歳で、土木作業員の「黒鍬」(武士ではない)として、名字もなく、ただの「太兵衛」として採用された。
・その後、名字をつけていいと言われたが、さすがに「宇喜多」はまずいと「栗田」を名乗った。
・その子(秀家の孫)は百姓となって肥後国玉名郡長州村(熊本県北部)で農家をしていたが、また没落。
・さらに子孫が熊本へ出て、とうとう細川家の長柄(槍)足軽になり、殿様のタバコ係になって、ようやく「武士」に戻れた。
・武士になれたのは、関ヶ原から100年以上たってから。

うーむ。シドニィ・シェルダンの『ゲームの達人』のような壮大な物語だ。

この「栗田」さんが、「浮田(うきた)」の名字を取り戻したのは、明治3年11月だったそうです。ちなみに八丈島の「お兄ちゃん」たちの子孫も、明治になって、島を出ることを許されたのでした。

 

川和二十六・記








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