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イラスト・富永商太

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その日、歴史が動いた 毛利家

毛利秀元とは? ホントはすごかった毛利元就の孫

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毛利と聞いたら、誰もが思い浮かべるのは元就。

そして「三本の矢」(ただし実話ではない)で有名な三人の息子達でしょう。
しかし、トーチャンがあれだけすごい人だったので、四男以下の子供も決してボンクラではありませんでした。
当の元就はそんな子達を「虫けら」呼ばわりしてるんですが、一応ちゃんとした理由はあります。

三男までが正室生まれ、その後は継室(正室が亡くなった後の正妻)もしくは側室生まれだったため、区別をつけるためにわざと悪しざまに言ったんじゃないかとされているのです。それにしても現代風なら「非摘出」を虫けらなんて、○○党の重鎮が聞いたらよろこび…。

そんなぞんざいに扱われた子の子孫にはあの関が原で大活躍……するはずだった人もいました。

天正七年(1579年)のあす11月7日、毛利元就の孫・毛利秀元が誕生しました。

毛利秀元/wikipediaより引用

【TOPイラスト】富永商太

 

初陣が文禄の役 幼い頃から優れた武将だった

この人は「虫けら」と呼ばれて一緒くたにされていた元就の四男・元清の子供です。
しかし、この時代の日本に誕生日を祝う風習はありませんので、生まれた日がわかっているだけでも最初からある程度身分が高かったという証拠になります。
他に誕生日がはっきりわかっている戦国武将としては、伊達政宗や細川忠興がいますね。
どちらも何百年も続いた名家です……当人のイメージのせいで名家に思えないとか言わない。

さて、この秀元さんは小さい頃から武将としての資質に優れた人でした。
それは初陣が文禄の役だったことからもわかります。
このときの毛利軍を率いていたのは従兄であり当主の輝元だったのですが、渡海後体調を崩してしまっていました。
近所とはいえ随分気候が違いますし、ただ単に水が合わなかったのかもしれません。
そこでこの知らせを受けた秀吉は、「アイツならできると思う!」と秀元に「日本軍」の大将を申し付けるのです。
ときに秀元十四歳。
初陣としてはちょうどいい年頃ですが、大将となると話は別。
さすがに徳川家康や前田利家をはじめとした大名達が反対しますが、秀吉は「小早川隆景もいるし大丈夫じゃろ」と押し通してしまいました。

 

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虫けらが日本代表キャプテンに

無茶振りにも程があんだろ……といつものツッコミをしたいところですが、秀吉がそう思ったのには(珍しく)ちゃんと理由があります。

この頃秀吉は九州・名護屋で諸将の監督をしていたのですが、あるとき大坂に残してきた母親が危篤であることを知らされました。
そして大急ぎで帰ろうとしたのですが、途中関門海峡の「死の瀬」とも呼ばれる難所で船が座礁してしまいました。
このとき、お供をしていた秀元が小舟を使って秀吉を救助し、しかも二心がない証拠として家臣ともども佩いていた刀を海に捨てたのです。
この手際の良さと気配りようを秀吉は覚えていて、必ず良い武将になると見込んだのでした。

こうしてご指名を受けた秀元は、初陣にも臆せず渡海します。
そこで見事に総大将をやってのけ、諸将を勝利に導きました。
見立てが当たった秀吉はご満悦で、「良い子の秀元にはワシの養女と領地をやろう。これで親戚じゃぞワハハハハ」と嫁までプレゼントしてくれました。
こうして秀元は、毛利本家とは別に一目置かれるようになったのです。

 

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関ヶ原で西軍の将としてやる気満々だったが

秀元の青年時代までは秀吉が日本を統一し、概ね安定させていた時期にあたるので、秀元自身の戦功と呼べるものは実はそう多いものではありません。
しかし、この「太閤の親族」「初陣で総大将を務めた」ことから、関が原本戦の毛利軍を率いる役を任されたのでした。
秀元は直接秀吉の恩を受けていますから、もちろん殺る気満々です。
毛利軍が陣取ったのは家康本陣の後方かつ高所。
前方の味方と協力して動けば、家康を討ち取ることも不可能ではなかったでしょう。

しかし、皆さんご存知の通り毛利軍は戦うどころか一歩も動くことなく、関が原は終わってしまいます。
それは秀元が臆病風に吹かれたのではなく、毛利家内の思惑が原因でした。
実は関が原前の毛利家は、到底一枚岩とはいえない状況だったのです。

秀吉時代の手柄によって、秀元は毛利本家から独立して自分の家を持っていました。
ただしまだまだ若かったので、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という毛利家の外交担当だった僧が後見人についています。
この恵瓊がかなりの曲者で、勝手に「毛利家は一丸となって石田殿に味方します!」と決めてしまいました。
主である秀元や輝元には事後報告で済ませるという横暴ぶり。
これを見かねたのは秀元や輝元よりも、吉川元春の子である吉川広家でした。

「あの坊主何してくれとんじゃ!輝元様は家康と義兄弟同然なんだから、そっちにつくに決まってんだろーが!」
しかし広家がいくら鼻息を荒くしたところで、既に恵瓊が返事をしてしまっている以上、軍を動かすとすれば三成方につくしかありませんでした。
ここで広家は頭を切り替えます。
「兵を動かしても、戦わなければ何とかなるんじゃね?」と。さすが吉川晃司、役者やのぉ

 

分家にお世話になった毛利本家

さっそく広家はこの妙案を家康に伝え、毛利軍を動かさない代わりにお家の安泰を取り付けました。
が、家康は関が原の後、見事にこの約束を反故にしてしまいます。
「三成方についたこと自体が気に食わん」というわけです。
結局張本人である恵瓊は打ち首、毛利家も所領を4分の1にされるという「滅びるよりはマシ」程度の扱いを受けてしまったのでした。
そもそも家康の目的は、上杉や毛利を始めとした「自分以外の大大名」の力を弱めることにあったわけですからね。
そこに気付けなかったのが広家の失態というところでしょうか。

こうして毛利家は急激に力を失ってしまったわけですが、実はこの4分の1にされた所領は、かつて秀元が秀吉からもらった土地なのです。
しかも「ここだけは毛利本家がどうなろうと、秀元のモンだから誰も手をつけてはならん!」というお墨付き。
まだ表向きは「豊臣の家臣」の立場だった家康なので、さすがにこれを覆すことはできませんでした。
戦に負けた上、本家が分家の土地に転がり込むという実にみっともないことになってしまったのです。

それでも秀元は文句も言わず、自分のものだった土地を本家に譲り身を引きました。
さすがに輝元も悪いと思ったのか、後に長州藩の支藩となる長府を秀元へ分け与えています。

が、やはり完全にはわだかまりが消えなかったようで、輝元の子・秀就の代にはちょくちょくいざこざが起きるようになってしまいました。
結局幕府の仲介で本家・分家の間は取り持たれるんですけれども。
若い頃優秀で実績もあっただけに、アホな上司の失策が許せなかったのかもしれません。
「もっと早く生まれていたら」というのは伊達政宗絡みでよく出てくるフレーズですが、こうしてみると秀元にもあてはまりそうな気がします。

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長月七紀・記

 




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