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その日、歴史が動いた 江戸時代

幕府へ物申した天皇、隠れた名帝・光格天皇崩御す

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江戸時代の天皇といえば、やはり幕末関連で出てくる孝明天皇。
むしろ、それ以外の方についてはほとんど知らない人が多いですよね。

孝明天皇ももちろんなのですが、現在の皇室の直接的なご先祖様は江戸時代中期にいらっしゃいました。
しかも幕府の権勢著しい中、勇気ある行動を起こしています。
今日はそんな「影の名君」とも呼べる方が主役です。

天保十一年(1840年)の11月18日、光格天皇が崩御されました。

先代の後桃園天皇に男子がなかったため、血筋は離れていましたが天皇として選ばれました。
他にも候補者はいたのですが、後桃園天皇の娘である内親王と結婚することも条件の一つだったので、年の近い光格天皇に決定したんだそうです。
身分の高い人にはよくある話ですが、出世と同時に奥さんが決まってしまうって庶民から考えるとスゴい話ですね。

 

即位早々、飢饉が起きる

まあそれはさておき、この方は即位早々不運に見舞われます。
江戸四代飢饉の一つ・天明の大飢饉にぶち当たってしまったのです。
江戸時代が災害のオンパレードだったというお話を前にチラッとしましたが、この飢饉はその中でも最大規模のものでした。
冷夏だけでも飢饉になりうる時代だというのに、各地の火山が噴火して日が差さなくなり、全国的な冷害になってしまったのです。
あまりにも死者が多かったため、どこの藩でも正確な数を計りかねる有様で、米屋への打ちこわしも頻発しました。

特に酷かったのは東北地方でしたが、当然京都を始めとした西日本でも影響は免れません。
人々は「上様に何とかしてって伝えてよ!」と京都所司代(京都にあった幕府の出張所みたいなところ)に訴えますが、この頃には所司代の権力が大幅に低下していたため、具体的な対策をすることができませんでした。
なぜかというと、ほとんどの仕事が江戸にいる老中の管轄になってしまっていたため、ほとんど名ばかりの役職になってしまっていたからです。
現代からすればそれで仕事が滞ってたら意味ないだろとも言いたくなるのですが、当時は誰もそんなことを気にしていなかったのでした。
幕末に京都守護職(松平容保とかがやってたアレ)が作られたのは、所司代が有名無実になっていたからでもあります。

無理やり例えるとすれば、融資の相談をしたくて地元の銀行窓口に行ったのに「私には権力がないので、本社のお偉いさんに言ってください」と門前払いを食らったようなものでしょうか。
そんな扱いされたら、本社じゃなくて別の銀行に行きますよね。
当時の市民も同じように考えて、幕府ではなく別のところにお願いに行ったのです。

 

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天皇に助けを求める民衆(○○年ぶり○回目)

それが天皇のおわす御所でした。
もちろん中には入れませんから、門のあたりで天皇の御座所の方角へ向かってお祈りをし、賽銭を投げるという人々が出始めたのです。
当初は数人だったのでしょうが、始まってから10日後には7万人を超える民衆が集まったとか。
京都だけではなく、大坂や近江など近隣諸国から天皇にお祈りをしにくる人が来ていたのです。
来る人が日に日に増えたということは、門番も無碍に追い返したりはしなかったのでしょうね。

京都の町はこれらの人々で溢れかえり、光格天皇の耳にも達しました。
真っ先に行動を起こしたのは後桜町上皇。
この方は2代前の天皇でした。現時点で最後の女帝で、上皇になってからは幼かった光格天皇の指導にあたるなど、後見役を果たしていました。(親子や兄弟関係ではなく、曽祖父が一緒という親戚)
何せ、光格天皇はこのとき10歳を過ぎたばかり。
当然市民もそれを知っていたでしょうから、いかに幕府が頼りなく思われていたかということがわかります。
ちなみに当時の将軍は10代めの徳川家治で、ちょうど40歳。
不惑を過ぎた将軍より、天皇とはいえ10歳の子供を信じたってどういうことなの。

 

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女帝の配ったリンゴが歴史を動かす

後桜町上皇はまず手元にあったリンゴ3万個を民衆に配るよう命じ、他の貴族達もそれに倣って握り飯やお茶を配り始めたそうです。
人が集まれば商人も集まり、どこからか菓子や酒を売る露天商もやってきたとか。商魂たくましいというかなんというか……。
これを見た光格天皇は幼いながらに知恵を絞り、勇気を出して幕府に直接「民を助けてください」と要請します。
が、これら皇室や貴族が民衆に何かをすること、そして幕府に指示を出すことは禁中並公家諸法度という法律に違反する行動でした。
もしお咎めを受ければ、光格天皇も後桜町上皇も、周辺の貴族もただでは済みません。

しかしこのときは幕府のほうが後ろ暗かったからか、「いやあすっかり対応が遅れてしまって申し訳ございませんすぐに米をお送り致しますんでハハハハハハ」とスルーしてくれました。
幕府としては例外はこれ一回きりのつもりだったのでしょうが、「朝廷が幕府を動かした」という事実は語り継がれていくことになります。
そして約100年後、維新の柱の一つ・尊王論となって倒幕の流れができていくのでした。

この一連の事件を「御所千度参り」というのですが、光格天皇はこれを忘れず、自分の立場でできることは何かということを主軸に行動していくようになります。
例えば、ずっと途絶えていた祭や儀式を復活させたり、当時こじれていたロシア帝国との交渉について報告を求めたりと、積極的に政治へ関わっていました。
そしてその姿勢は、次代以降の天皇にも引き継がれ、これまた明治維新に繋がっていくことになります。

維新間際というと孝明天皇を連想しますが、その源流はもっと昔にあったんですね。
もし幕府が朝廷からせっつかれる前に米の供出をしていたら、尊王派の力はもっと弱かったのかも?

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長月 七紀・記




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