関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

徳川家

関ヶ原の戦い 激戦前夜の三成&家康マトメ!史上最大バトルの準備は?

慶長五年(1600年)7月1日は、宇喜多秀家が豊国神社で出陣式を行った日です。

後世から見れば「関が原の戦いに向けて西軍が気合を入れた日」といった感じでしょうか。

ということで、今回は関が原の戦い関連のうち、前哨戦が始まる前までの流れを追いかけていきましょう。

日付的には、慶長五年の7月いっぱいまでです。

 

決定的な分裂を生じさせたのはやっぱり朝鮮出兵

良くも悪くも関が原の中心人物は石田三成。
関が原の東西を分けたのは、彼に対する好感度といっても過言ではないでしょう。

秀吉の晩年における失策の一つ「朝鮮出兵」で、三成に大きな誤解が生まれてしまったのです。

彼自身、前半戦である文禄の役では戦闘にも参加していますが、元々は武官というより文官に近い人ですから、物資の調達や秀吉との連絡役などを主に担当していました。
慶長の役では渡海せず、やはり後方支援に徹しています。

埒が明かない戦況に陥り、現地からは「戦略を変えるべきではないか」という声が届きました。

三成がこれを素直に秀吉へ伝えたところ、耄碌の始まっている天下人は
「朝鮮なんて明への入り口にすぎないのに、そんな弱気でどうする!」
と大激怒。
戦略変更を提案した武将たちの領地を減らすなどの処罰をしています。

この結果が再び三成やその縁者によって朝鮮滞在中の諸将に伝えられると、日頃から三成と仲の悪かった者達が邪推をしてしまいます。

『あの三成めが、きっと俺達の悪口を言って秀吉様をたぶらかしたんだ!』

イラスト・富永商太

イラスト・富永商太

 

日本に帰ってみれば既に秀吉は亡くなっていた

ついでに言うと、慶長の役で戦っていた諸将が帰ってきた頃、秀吉はとっくに亡くなっていました。

これが現地に連絡されていなかったことも、諸将の神経を逆なでします。
現地組の中には、秀吉の子飼いと呼ばれる、非常に長い付き合いの武将も少なくなかったからです。

流れからすると、
「三成が秀吉様にあることないこと吹き込んだせいで、俺たちも秀吉様も大変なことになってしまった。おのれ、三成!!!」
なんて思われても仕方がありません。

この二点により、三成は自分の株を相当に下げてしまいました。

三成は頭がイイことは間違いないのですが、人付き合いが得意ではないというか、歯に衣着せぬ面が強かったようで、日頃から他の子飼いたちと衝突することも珍しくありませんでした。
そしてこれらの誤解により、衝突がエスカレートしてしまったのです。

そんなわけで、本来であれば力を合わせて秀頼を守り立てていくはずだった秀吉の遺臣たちは、真っ二つに割れてしまいます。
そこへ割って入ったのが東軍トップの徳川家康でした。

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北の雄・上杉&直江も反家康であり……

家康はアレコレ手段を講じて、三成と仲の悪かった武将たちを味方につけます。

一方、三成はそれを見て、「あの野郎、秀頼様が豊臣家の主ということを忘れてやがる! 一発殴って排除しなければ!」(超訳)と考えました。

しかし、あっちこっちから恨みを買っている三成が呼びかけても、味方になってくれる人はなかなか見つかりません。
大谷吉継にも指摘されていたのですが、三成は諦めませんでした。

運良く? 家康の台頭について、三成と同じように苦々しく思っていた人がいたのです。
北国の雄・上杉景勝と直江兼続でした。

最近では彼らが密約して兵を動かした説が支持されていますが、実際のところどうだったかはっきりわかりません。
そもそも、それがわかったら”密”約じゃないですしね。

まあそこはともかく、景勝が戦の準備に見えるような動向を見せ、家康を挑発にかかりました。

とはいえ家康も歴戦の武将ですから、いきなり攻めこんだりはしません。
僧侶を通じて、景勝ではなく兼続に「最近なんかいろいろやってるんだって? 秀頼様に何か言うことあるんじゃないの?^^」(超訳)といった手紙を送りました。
これに対する超ド級に無礼な返書が、かの有名な「直江状」です。

直江状
家康激怒の『直江状』には何が書かれていた?関ヶ原の戦いを引き起こした手紙

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あくまで秀頼&天皇の許可を得て攻め込んだ

家康は、ともかく直江状にはキレた「ことにして」、上杉家の領地・会津を攻める軍を興しました。

ここでカギになるのが、会津征伐が豊臣秀頼と天皇の許可を得て行っているということです。
つまり、この時点では実質はともかく、“名目上”では家康が豊臣家の臣であり、朝臣でもあるという立場でした。

その家康に武力を行使するということは、秀頼や天皇に牙を剥くことにもなるわけですが……三成や西軍の中にそこを気にした人はいなかったようです。

こうして上方を発った家康が充分に離れたところで、三成は兵を整えます。

「お前は敵が多すぎて誰もついてこないから、総大将は他の人に頼め」

そんな大谷吉継の説得により総大将は西国の雄・毛利輝元、副将には宇喜多秀家が収まりました。
彼らは五大老のうちの二人ですから、名分や領地の広さなどを考えれば妥当なところだったでしょう。

それでも、実質的な中心人物はやはり三成です。

また、関が原前夜というと、

ねね(秀吉の正妻)vs 淀殿(秀吉の側室)

という「女の戦い」があったかのようなイメージも強いですよね。
正室と側室ということで、嫁・姑の戦いを連想する人もいるでしょう。

従来の説では、ねねが子供の頃から面倒をみてきた武将が東軍に多いこと、家康がねねの出家後の呼び名でもある高台寺の建立を後押ししていることなどから、「ねね=東軍派」となっていました。
淀殿は秀頼の生母であり、後の大坂の役に通じる家康との対立から、関が原の時点でも「淀殿は家康嫌い=西軍派」だったと思っている方が多分大多数でしょう。

しかし、ねねは西軍の出陣式に自分の側近を行かせています。
しかもこの側近は、吉継の生母である東殿局という人です。

既に吉継が西軍につくことが決まっていたからこそ、その母を選んだのかもしれませんが、いずれにしろ、ねねは側近を参加させるほど、この戦を重要だと思っていたことになりますよね。

 

どっちが勝っても秀頼を守れるようにしてたとか!?

ついでにいうと、淀殿が当時の家康を敵視する理由があまりありません。

上記の通り、会津征伐の段階では家康が秀頼のお墨付きをもらっていますので、
「家康殿が謀反人を始末してくれるというのに、三成殿はいったい何を考えているの?(´・ω・`)」(※イメージです)
と思っていたとしてもおかしくはないでしょう。

【淀殿=西軍派】のイメージが強いのは、三成とデキていた説の影響もあるでしょうね。

淀殿だけが秀吉の側室の中で二回も子供を授かっているので、当時から「秀吉の子供ではなく、側近の誰かと作った子供なのでは」なんて話もありました。

これは完全に個人的な意見ですが、もしかしたら真田家や他家のように、水面下でねねと淀殿が示し合わせて
「どっちが勝っても秀頼を守れるように、別々のほうにつきましょう」
なんて話もしていたかもしれません。

二人が険悪な仲だったという確たる証拠はありませんし、ねねの人付き合いのうまさから考えても、淀と仲違いする可能性の方が低いんではないでしょうか。

そんなこんなの複雑な人間関係の中、宇喜多秀家はヤル気満々で7月1日、出陣式を行いました。
しかも秀吉を祀る豊国神社でですから、秀家としては「家康を討ち、秀頼様を皆でお守りします!!」というような気合が入っていたことでしょう。

 

理屈と心情は違う その読み甘き三成の戦術

しかし、この後のいくつかの失策によって、西軍は大きく損をしていきます。
主に三成が強引すぎたのが原因です。

具体的には、「近江にいきなり関所を作り、家康に合流しようとしていた武将たちを無理やり西軍に引き入れた」とか、「大名の妻子を大坂城内に入れて人質にするため、武力を行使しようとした」とか……。

特に人質策は、細川ガラシャを自害に追い込んでしまい、大きな痛手となっております。

三成がバカだとはとても思えません。
戦略的には正しいのだと思われます。

ただ「こうされたら相手はどう思うか」という視点がどうしても弱く、人望が大きく損なわれる原因だった気がしてなりません。
秀吉とのお茶の逸話や、領民には優しかったことを考えると、その辺の匙加減がわからないとも思えないんですけどね。

天下人の下で官僚的な働きばかりをマスターしたのがよくなかったのかもしれません。

その点、徳川家康には老獪さが垣間見えました。

©富永商太徳川家康3

まず他大名の心境や立場を考慮して動いている感があり、本当に老獪です。
若かりし頃あの織田信長とうまく付き合っていた人ですから、空気の読み方では日本史上随一だったのでしょう。

戦略的にも、家康は東海道を行き、秀忠には中山道を進ませ、挟撃や全滅を回避。
小早川秀秋などには事前に調略をかけていたりと、あらゆる面から対策をしています。

家康だって楽勝ではなかったのです。

むしろ開戦前はガクブルとしていた。
東軍・西軍ともに不安要素だらけで、キッカケ一つで何がどう変わるか――それを考えるだけで億劫になるものでしょう。

とにかく勝敗がどちらに転ぶかなんてわからないんだから、真田家のように「せめてどちらかは生き残れる道を」という家が出てくるのも自然なことです。

【犬伏の別れ】
真田昌幸(父)&真田幸村(弟)
vs
真田信之(兄)

こんな感じで、慶長五年の7月は過ぎていきました。

最近は戦国武将の行動を参考にしたビジネス書などもありますが、関が原の戦いは、東軍・西軍のリスクヘッジ対決としてモデルケースにできるかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
関ヶ原の戦い/Wikipedia

 



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