となると、その時期の歴史的事件をすべて体験した世代もいたということであり、過酷な運命をたどった方もおりました。
昭和二十三年(1948年)4月17日に亡くなった鈴木貫太郎もその一人です。
終戦時の総理大臣ということでご存知の方が多いですかね。
彼の生涯はまさに【近代日本の縮図】といってもいいような流れでした。
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関宿の出=旧幕府の手先
鈴木が生まれたのは慶応三年12月24日(旧暦)。
誕生日直前に大政奉還(1867年10月)が実施され、まさに江戸幕府が終わろうとしていた年のことでした。
家は関宿藩(せきやどはん/現・千葉県野田市の北端)の代官をやっていたので、そこそこな身分といっていいでしょう。
それが鈴木にとっては仇になってしまいます。
というのも、関宿藩は交通の要衝であったことから代々譜代大名が治めることになっており、当然、明治新政府からは
【関宿の出=旧幕府の手先】
なんて見方をされていたものです。
鈴木の年齢からして、幕府のご恩なんて関係なさそうなもんですが、海軍に入ってからなんやかんや言われたとか。
近代化を謳う明治の軍隊がそれでいいのかな……。
鈴木としても「んなもん知らんがな(´・ω・`)」としか言いようがなかったでしょう。
【日清戦争】の直後であり【日露戦争】の直前であり
進級その他でうんざりするほどの差別を受けた鈴木は、一度海軍を辞めようとします。
が、とき折りしも【日清戦争】の直後であり【日露戦争】の直前です。
北の大国と一戦交えそうだ――。
そんな空気は国内でも日に日に強まっていたらしく、地元の父親からは手紙も届きました。
「軍に入ったからには、国を守るためにしっかり働け」
そんな父の言いつけに従い、辞職を思いとどまった鈴木は、気合を入れて日露戦争に臨みます。
部下から「鬼の貫太郎」「鬼の艇長(船長)」「鬼貫」と恐れられていた鈴木。猛訓練の末、日本海海戦を勝利に導くことに成功します。
鬼鬼言い過ぎな気もしますが、他に形容詞が思いつかないくらいおっかなかったんでしょう。
普段は温厚な人でしたので、豹変っぷりがあだ名を導いたのかもしれません。
日露戦争後はドイツへ駐在員として赴任し、贈賄事件の後処理に当たりました。この頃には偏見の目で見られることもなくなっていたようで、順調に出世していきます。
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