今回は信長の話ではなく、徳川家康に強く関連するお話です。
それだけではなく武田信玄にも絡んだ話。
と言えば、戦国ファンにはお馴染み【三方ヶ原の戦い】ですね。
家康をフルボッコにした最強武田の著名な戦いの一つであり、複数の記録が残されてはおりますが、織田サイドから見た同合戦はどのように描かれていたのか?
つまり『信長公記』には何が書かれていたのか?
興味深いところでありますよね。
早速、見て参りましょう。
佐久間・平手・水野を送った信長の真意は……
11月下旬、武田信玄が徳川家の二俣城(浜松市天竜区)を包囲したため、家康は信長に援軍を求めました。
これに応え、信長は佐久間信盛・平手汎秀(ひろひで)・水野信元らを派遣します。
佐久間信盛は言わずとしれた、織田家の筆頭家老。
「退き佐久間」とあだ名されており、特に撤退時の殿(しんがり)を得意とした人物です。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
平手汎秀(ひろひで)は、信長の「じい」だった平手政秀の息子、あるいは孫といわれています。
政秀が信長の若い頃に自害したため、汎秀には目をかけていたとも。
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つまり母方の伯父です。
かつては今川氏についていましたが、信元の代から織田氏に接近していました。
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援軍を派兵すれど既に二俣城は陥落せり
信長としては、難しい局面でした。
柴田 勝家や豊臣 秀吉、あるいは明智 光秀などのスーパー武将を送る余裕はない。
さりとて大切な同盟国である徳川に負けてもらっても困る。
ましてや信長自身が出馬して真っ向から信玄と対決し、敗北でも喫すれば、織田の基盤が瞬時に崩壊させられるかもしれない。
いわば八方塞がりの中で、どうにかやりくりせねばならない状況です。
それでも家康へ援軍を送るとしたら?
・家康が求めている戦力
・織田家としての建前
・現地に詳しい人物
そんな諸々の条件を兼ね備えたメンバーを選んだと思われます。
なんせ相手は武田信玄です。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
直接ぶつかることだけは避けたいと願いつつ、織田から徳川へ派兵された援軍が着到したとき、既に二俣城は陥落しておりました。
三方ヶ原の戦い 始まる
そのころ信玄は、堀江城(浜松市西区)の方角へ進軍していました。
家康の本拠である浜松城(浜松市中区)を素通りするようなルート。
そのまま通せば家康を含め、徳川家の主要人物は助かります。
しかし……。
それは戦わずして負けたも同然。武士としての沽券に関わります。
堀江城にいる家臣たちを見捨てることにもなる。
当時30歳という、まだまだ血気の抜けない年頃だった家康は、これらに耐えられませんでした。
そして周囲の反対を押し切り、家康は浜松城から出撃。
三方ヶ原で武田軍と戦闘となったのです。

徳川家康/wikimedia commons
ここに織田家からの援軍も合流し、激しい戦いが繰り広げられました。
いわゆる【三方ヶ原の戦い】ですね。
織田家をクビになった元小姓たちも戦った
実はこの戦闘の描写は、信長公記に詳しくありません。
12月22日に平手汎秀と家康の身内衆・成瀬正義、その他数名の家臣が討死した、とだけ書かれています。
むしろ無名に近い人物の記述に行数を割いているのが興味深いところです。
このとき、信長から派遣された軍の他にも、徳川方に味方した織田家の人々がいたのです。
しばらく前に、織田家をクビになっていた信長の元小姓たち四人が、家康を頼って遠江で蟄居していました。
織田家に戻ろうとしたのか。
それとも家康に認めてもらって召し抱えられようとしたのか。
理由は定かではありませんが、四人で奮戦し、手柄を挙げながらも全員討死したといいます。
さらに、彼らを見舞いに来ていた清洲の甲冑商・玉越三十郎という者も討死したのだとか。
彼は元小姓たち四人に「貴方まで死ぬことはない、武田軍がここまで来る前に尾張へ帰ってください」と言われてはおりました。
しかし「ここで逃げ帰ったとあっては、生き延びても世間に顔向けできません。私もあなた達とともに行きます」として、逃げることを拒み、元小姓たちと共に戦って死んだのだといいます。
潔い話ではありますが……現代の我々からすると、なかなか割り切れない感じもしますね。
信長の超強運 ここでも発動!
三方ヶ原の戦いについては、家康の「味噌」の話があまりにも有名ですが、信長公記にはもう少しカッコイイ話も載っています。
家康は三方ヶ原から退却する途中で、武田軍の待ち伏せを受けました。
しかし家康自身が馬上から敵を射倒し、浜松へ帰城することができた……というものです。
後年の政治家的なイメージが強いので目立ちませんが、家康は武術の達人でもあるんですよね。
その後、家康は浜松城にこもってここを固く守り、武田軍はさらに西へ進んだのですが……。
翌年信玄が突如病死したため、甲斐へ戻ることになります。
このタイミングで強敵が亡くなるとは……本当に信長の悪運については恐ろしいものがあります。

織田信長/wikimedia commons
後に、柴田 勝家が【手取川の戦い】で大敗するなど、上杉 謙信と揉めたときも、最終的に謙信が死んで、その脅威からは解放される展開を迎えています。
実際、信玄の侵攻&死をキッカケに、信長の勢力基盤は俄然強みを増していきます。
1572~1573年という年は、織田家にとって本当に大きな変わり目の年となりました。
英雄とは、こういう運も味方するもんですよね。
最後になりましたが、三方ヶ原の戦いについては現地を歩きながらの考察記事がございます。
より詳細をお知りになりたい方は、併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)




