NHK大河「麒麟がくる」がスタートし、まもなく2カ月がたとうとしています(※第7回放映後に執筆)。
公式ページでは、時代考証に携わった歴史学者の小和田哲男先生が次のように述べておられました。
明智光秀の前半生については謎だらけと言ってもいいでしょう。
いつ生まれたのか、どこで生まれたのかもいくつもの説があります。
このように、ここまでのストーリーは、大枠は史実に基づいているものの、特に光秀の言動については完全にフィクションです。
拙稿「光秀の生涯を描いた唯一の書『明智軍記』には何が書かれている?」の中でも指摘させていただきましたが、
光秀の生涯を描いた唯一の書物『明智軍記』には何が書かれている?
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光秀の生涯そのものが実はよくわかっていないことばかりなのです。
それゆえに、現在展開されている彼の前半生を読み解いていくと、製作陣がどのような意図をもち、どんな光秀像を描こうとしているのか、そして光秀に何を象徴させようとしているかが見えてくるように思います。
鍵になるのは、言うまでもなくタイトルにある「麒麟」でしょう。
そしてもう1つ注目したいものがあります。
「鉄砲」です。
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鉄砲との運命的な出会いが描かれる
ここまでの『麒麟がくる』で、鉄砲はどのように描かれてきたか?
三話で、斎藤道三から鉄砲の研究を命じられた十兵衛(光秀)は、五話で腕利きの鉄砲鍛冶・伊平次を探しに京に向かいます。
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そして、伊平次が出入りしているといわれている本能寺を訪問(本能寺は鉄砲の普及にも大きな役割を果たしています)。
十兵衛は、伊平次を見つけ、いったんは鉄砲の組み分け(分解)を拒否されるものの、十兵衛がかつての命の恩人だったことに伊平次が気づき、協力を取り付けることに成功します。
このように光秀と鉄砲の運命ともいえるような関係が描かれています。
そして、この奇妙な「出会い」は、光秀の人生のさまざまな局面で、鉄砲が大きな役割を果たしていくことを意味するように思います。
光秀の人生に深くかかわる
事実、光秀はこののち、鉄砲の名手として名を馳せていきます。
例えば『明智軍記』では、朝倉義景に仕官していた光秀が、義景の前で鉄砲の腕を披露した際、40メートル以上先にある的の中心に100発を放ち、68発が中心を打ち抜き、義景を驚かせたことや。
信長に仕えてからは、三好三人衆が将軍足利義昭を襲った本圀寺合戦で、櫓の上にのぼり、三好勢を狙撃し、将軍を守り抜いたことが描かれています。
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もちろん本能寺の変で、信長を襲撃したときも、鉄砲が大きな役割を果たしました。
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さらに、信長を滅ぼした後の【山崎の戦い】では、4万の豊臣勢に対し、明智勢は1.6~1.8万だったといわれます。
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兵力差だけ見れば、絶対的不利な状況にもかかわらず、なぜ、光秀が戦に挑んだのか。それはもしかすると、鉄砲術に自信があったのかもしれません。
しかし、合戦当日は雨――しかも川をわたって進軍した結果、火薬が濡れ、鉄砲が使えなかったといわれます。もちろん、それだけが敗因ではないでしょうが、鉄砲は、このように光秀の人生と深くかかわる存在だったのです。
鎖国にも影響を与えた鉄砲
鉄砲は、当時、日本に入ってきた新しい技術です。
そしてこの技術の普及によって、日本の戦国時代の勢力図が大きく変わり、天下が統一されていきます。
さらには日本の鎖国を決定づけたのも、この鉄砲です。
鎖国というと、ネガティブな印象を持つかもしれませんが、見方を変えれば、西欧の支配を受けなかったともいえるわけです。
事実、スペインやポルトガルの宣教師が記した書物や本国への報告書などには、日本は恐ろしい軍事大国であることが書かれています。
この宣教師たちの印象は、日本の武士たちが刀や槍などの武芸に秀でていたことはもちろん、鉄砲を50万丁以上保有し、活用していたことに基づいています。
戦国時代を終わらせ、開国に至るまで日本を列強から守り続けたもの。つまり、日本の近世という新しい時代をつくったものこそが鉄砲だったといえるでしょう。さらに……。
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