織田家 信長公記

天王寺砦の戦いで信長撃たれる! 雑賀衆の怖さよ~信長公記136・137話

織田信長戦国大名としては珍しく、戦場で自ら前に出ていくタイプです。

若い頃は特にその顕著が強く、

【村木砦の戦い】では先頭で指揮をして、

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稲生の戦い】では一騎打ちをするほど。

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さらに【長良川の戦い】では、道三が死んで尾張に戻るとき、自らが殿(しんがり・最後尾で危険な位置)を務めるほど血気盛んな武将でした。

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長良川の戦い
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皆さんによく知られたところでは【桶狭間の戦い】でも、最初はわずか6騎で城を飛び出し、熱田神宮で味方の到着を待ったと言います。

それから約16年後の天正四年(1576年)――。

信長の本質は少しも変わっておりませんでした。

味方のピンチを聞くやいなや飛び出し、わずか100の兵と共に出陣したことがあります。

それが【天王寺砦の戦い(天王寺の戦い)】と呼ばれる合戦です。

前に出過ぎて傷まで負ってしまったこの戦い。相手は天敵の石山本願寺でした。

 


天王寺砦の戦い~敵は本願寺

「石山本願寺が挙兵した!」

天正四年(1576年)4月14日、京都滞在中の信長に急な知らせが届きました。

信長は、以下の四将に畿内の軍勢を率いて出陣させることを決断。

・荒木村重
・細川藤孝
・明智光秀
・原田直政

まずは三手に分かれ、次のように動くことを命じます。

荒木村重軍

尼崎から海上ルートで大坂へ向かい、本願寺の北・野田に砦を築く

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原田直政軍

木津の制圧に向け、天王寺に砦を築く

ある程度戦が長期化することを見込んで、足がかりとなる拠点を作らせたというところでしょうか。

浅井朝倉や武田家など、周囲から強烈なプレッシャーを受けていたこれまでとは違って、当面のところ近隣の敵に邪魔されるおそれもありません。

「今度こそ石山本願寺と決着をつけよう!」という意気込みも感じられます。

なお、原田直政とは、それまで「塙直政(ばん なおまさ)」と表記されていた人物です。

天正三年(1575年)夏に信長が朝廷に対し、家臣たちへ名族の姓を賜るよう願い出た頃(信長公記123話)、直政にも「原田」の姓が許されたと考えられています。

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ターゲットは三津寺なり!

村重や光秀らの家臣団は、ほどなくして4つの砦を構築。

対する本願寺は

・楼岸(ろうのきし)
・木津

など複数の場所に砦があり、織田軍は最前線となる天王寺砦を主要拠点としました。

ここへ明智光秀が入り、後からやってきた佐久間信栄(信長の家老・佐久間信盛の息子)も合流します。

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そして5月3日、いよいよ織田軍から攻撃を仕掛けました。

ターゲットは、楼岸と木津の間にある本願寺側の寺院・三津寺。

これを占拠する作戦であり、先陣が三好康長と根来・和泉の兵で、二陣は原田直政と大和・山城の兵でした。

康長は前年に織田氏へ降ったばかりの新参、かつ石山本願寺との和睦を仲介した人物でもあります(本連載127話)。

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これに対し、本願寺方は一万もの兵を繰り出してきて、織田軍を包囲し、散々に鉄砲を撃ちかけてきました。

もはや宗教団体というより戦闘集団――ただし、そこにいたのは宗徒たちだけでなく、鉄砲のプロ・雑賀衆(さいかしゅう)だったようです。

 


恐るべき鉄砲集団・雑賀衆

雑賀衆というのは、現在の和歌山市付近で独自勢力を持っていた傭兵集団のことです。

いち早く新兵器の鉄砲を導入し、数と練度を高めていました。

一般的に鉄砲伝来は天文12年(1543年)とされます。

それ以前から入っていたと指摘する声もあり、雑賀衆は日本でもかなり早い段階から鉄砲を取り扱い、独自のポジションを築いていったとされます。

絵・小久ヒロ

なぜそんなことができたのか?

というと、雑賀衆の本拠地は作物の育ちが悪いため、海を通じた【九州―四国―和歌山】という交易が昔から盛んで、そうした流通ネットワークの中で鉄砲も早い段階から入ってきたというのです。

もう少しだけ見ておきますと、雑賀衆と本拠地を隣接する【根来衆】もまた鉄砲傭兵集団として恐れられており、彼らは織田信長だけでなく豊臣秀吉とも敵対しました。

織田軍や豊臣軍に攻められた【紀州征伐】では、かなり奮戦。

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先の話になりますので詳細は上記の記事にお譲りしますが、いずれにせよ石山本願寺に籠もる雑賀衆は非常に厄介な存在でした。

なんせ彼らは、建物の中にいる限り、火縄銃唯一の天敵である雨も関係ありません。

包囲された織田軍の被害は大きく、原田直政を含む武将数名が討死してしまいました。先鋒の三好軍が崩れ、動揺した原田軍も奮闘しますが支えきれず……という流れだったようです。

兵の死傷者数については『信長公記』に記載がないのですが、相応の数だったのでしょう。

この知らせを受けた信長は、直ちに出陣命令を出し、自らも出馬するのでした。
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