イラスト/富永商太

織田家 信長公記

織田軍が北陸で謙信と激突? 勝家とケンカした秀吉は……信長公記148話

天正五年(1577年)8月8日、柴田勝家が北ノ庄から北陸へ出陣しました。

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といっても、これだけだと「なんのこっちゃ?」という感じがありますね。

『信長公記』によくあることなのですが、織田信長本人の行動以外は「なぜそこでそうしたのか」という経緯があまり書かれていません。

少々補足を入れながら、話を進めていきましょう。

 


畠山氏の内紛につけこむ上杉軍

まず、この出陣は能登にある七尾城救援のためでした。

七尾城は、能登の大名・畠山氏の居城です。

この頃は当主・春王丸が幼少のため、長続連(ちょう つぐつら)や遊佐続光(ゆさ つぐみつ)をはじめとした重臣たちが実権を持っていました。

また、続連は織田氏、続光は上杉氏をそれぞれ頼ろうとしており、激しい対立が起きていたといいます。

天正四年(1576年)11月、そうした状況の七尾城に上杉謙信が侵攻してきました。

天正五年(1577年)年明けに一旦撤退したものの、閏7月には再度攻め入ってきています。

続連らは七尾城に籠城して粘りましたが、近隣の農民や町人をも収容したため、衛生問題が深刻になってしまいました。

夏場ですから、ただでさえ何もかも傷みやすいのも仕方のないことです。

疫病が発生し、ついには春王丸まで病死するという大惨事で、城内の士気はガタ落ち。

自分たちだけではどうにもならないと悟った続連は、信長に救援を求めるため、三男・長連龍(ちょう つらたつ)を使者として遣わしました。

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冒頭で述べた8月8日の勝家出兵は、この要請に応じたものです。

 


いよいよ謙信との直接対決か

信長もこのエリアの状況はある程度知っており、閏7月23日の時点で、以前から連絡をとっていた奥州の大名・伊達輝宗にこんな依頼をしています。

「越後の本庄繁長と相談して、上杉謙信への牽制に動いてもらいたい」

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これまで謙信と信長は比較的友好な関係を保っていましたが、織田家の勢力圏が越前に及んだこと、信長の権威が増したことで、次第に両者の感情は悪化しつつありました。

いよいよ、直接ぶつかり合う時が来た……という心境だったのではないでしょうか。

武田信玄という大黒柱を失い、さらに【長篠の戦い】で大打撃を与えることができた武田氏と違い、上杉氏は謙信が健在。

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正面からぶつかり合うのなら、長期戦と相応の損失を覚悟せねばならないところです。

そのため、勝家とともに七尾城へ向かった将兵はかなりの規模になりました。

信長公記に載っている主だった武将だけでも、錚々たるメンバーです。それは……。
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