今回は、元日の京都から始まります。
天正六年(1578年)1月1日の朝、京都では節会(せちえ)が行われていました。
節会とは、四季折々に朝廷で行われる行事の総称です。この日は元日なので【元日節会(がんじつのせちえ)】といいます。
ざっくりいうと、天皇(当時は正親町天皇)が公家たちの挨拶を受けた後、宮中の各所で宴会をするというものでした。
『信長公記』によると
「根ごと引き抜いてきた小松を二本用意し、午前八時頃から神楽歌を歌って儀式を行った」
のだとか。
戦国時代になってから長らく、朝廷では譲位や即位、果ては天皇の葬儀ですら費用に困る有様だったので、こういった行事も途絶えてしまっていました。
太田牛一によると、信長が朝廷へ献金したり、公家の領地を返還させたことで、何とか行事の費用も捻出できるようになったとのことです。
信長の他にも、朝廷に時折献金をしていた武士はいましたので、全てが信長のおかげというわけではありませんが……いずれにせよ、信長の権威が果たした役割が大きいことは間違いないかと。
ですので、都の貴賤男女は皆、節会の復活をめでたくありがたいことだと思ったそうです。
一雲斎針阿弥が使者として前久にも鶴を
少し日があいて、次の記述は1月10日。信長が鷹狩で捕らえた鶴を、正親町天皇に献上しました。
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後の記述からすると、信長は上洛せずに使者を送ったものと思われます。
正親町天皇は大変喜び、鶴に興味を示して、これを宮中で飼うことにしたとか。
また、一雲斎針阿弥(いちうんさい はりあみ)という同朋衆(どうぼうしゅう・側近のこと)を使者として、以前から信長と親交のある近衛前久(このえ さきひさ)にも鶴を贈ったそうです。
針阿弥は信長を政治面で支えた側近の一人で、こうした使者の役もたびたび務めていた人です。
どちらかというと大和国に縁の深かった方のようで、法隆寺の学侶(学業を中心とする僧侶)と堂衆(堂舎の管理や法会の雑務などを担う僧侶)が対立を深めて、信長に仲裁を仰いだときに針阿弥が取次を請け負ったとされます。
他にも興福寺や薬師寺などにも関わりがあったとされ、天正9年(1581年)に興福寺大乗院のトップが安土を訪れたときにはその世話役にも任じられました。
一般的には無名な存在ですが、信長の信頼は相当厚かったのでしょう。
【本能寺の変】の際にも現地にいて、信長に殉じたのが最期と考えられています。
鶴の礼を言うために安土へやってきた前久
翌1月11日、今度は前久が鶴の礼を言うため、安土へやってきました。
前久と信長は、鷹狩などで趣味が合う友人でしたので、公私入り混じった気軽な訪問だったのではないでしょうか。
話をしているうちに、「前久が町家に宿をとっている」と聞いた信長。松井友閑に「お前の邸を前久殿の宿として提供せよ」と命じ、衣服も進呈したといいます。
前久はこれにも礼を述べて、12日の早朝に京へ帰っていきました。
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前久は元々フットワークが軽く、五摂家筆頭といえる近衛家の当主でありながら、自ら地方にも赴いて戦国大名ともつきあっていた人です。
町家に泊まるくらいは平気だったのかもしれません。
そこで友人のために、少しでも良い宿を使わせよう……というのは、信長の優しさでしょうか。
松井友閑なら都の事情や文化にも詳しいので、粗相をするおそれもありませんし。
穿った見方をすると、町家で政治的な話や信長にとってまずいことをされてはかなわないので、友閑に見張りをさせた……とも考えられますかね。
吉良で鷹狩
こうして比較的のどかな正月を過ごした信長。
1月13日には、一月ぶりの鷹狩に出かけています。
途中で岐阜や清洲を経由し、1月18日に前年末と同じく三河・吉良で鷹狩をしました。
吉良での鷹狩がお好きなようで、信長公記にはこれで三度目の登場となりますね。
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この日も雁や鶴をたくさん獲ったようで、帰路に岐阜へ立ち寄り、1月25日に安土へ帰ってきました。
往路・復路両方で岐阜には一日滞在していますので、岐阜城では嫡男の織田信忠やその下につけた家臣らと何か相談でもしたのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
『法隆寺東寺・西寺相論と織田信長 - 東京大学史料編纂所』(→PDF)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
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谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
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