信長を喜ばせた安部二右衛門(村重家臣)の寝返り~信長公記174話
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次の仕事のため、伊丹から直接丹波へ出撃しました。
丹波は現代の兵庫県北東部~京都府中部を経て、大阪府北部にまたがる地域です。
全体的に山が多く、その合間に国人が割拠しており、なかなか攻めにくい状態でした。
光秀は丹波の中核ともいえる大名・波多野秀治とその弟・秀尚のこもる八上城(やかみじょう・丹波篠山市)を包囲することにしました。
彼らはかつて、織田家につくと見せかけて丹波の国人たちと反織田家同盟のような状態を作っており、二股膏薬(ふたまたこうやく)といった振る舞いをしていたのです。
もちろん、信長にとっては好ましくありません。
波多野サイドがなぜそんな強気なことをしたのか?
というと、八上城が地形を利用した非常に堅牢な城だったことだからだと思われます。
実はこの城、室町幕府が機能していた頃からたびたび籠城戦の舞台になっていました。
そのたびに城主である波多野氏が勝利を収めたといわれており、それだけに光秀も慎重に慎重を重ね準備をはじめました。
三里四方(約12km)に堀を掘り、小屋を立て
このときは周囲・三里四方(約12km)に堀を掘り、塀や柵を何重にも巡らせて、完全に封鎖。
つまり兵糧攻めによる超長期の持久戦を試みました。
塀の側には兵が駐留するための小屋を町家風にして建て、交代で厳重に警備させたといいます。
小屋の数は不明ですが、12kmにわたって目を光らせるのですから、小屋は200~300mあるいは500mおきぐらいに建てられたのかもしれません。
光秀自身、他方面への作戦に呼び出されることも多く、現場を離れなければならないこともありますので、こうした籠城戦は織田軍の事情ともマッチした作戦でもありますね。
この時点で、織田軍は三ヶ所も包囲戦をしていたことになります。
人的被害は少ないものの、物資の補給や士気の維持など、別の困難が伴いますので、楽とはいえません。
また、あまりに長く地元を留守にしておくのも考えものです。
12月21日に織田信長は古池田から京都に帰還。
この日は少し雪が降ったとかで、京都での政務に少し手間取ったのか、信長が安土へ帰ったのは12月25日のことでした。
なお、丹波国のツートップである波多野秀治と赤井直正については、以下に詳しい記事がありますので、よろしければ併せてご覧ください。
次回からは天正七年(1579年)の話題に移ります。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)