徳川家康には、男女合わせて17人の子供がいたとされます。
男の子が12人で女の子が5人。
女の子の人物像や嫁ぎ先などが不明なことはままありますが、男の子について知られていないとなるとチョット不思議です。
以下の七名は、ご存知の方も多いでしょう。
家康の子供たち
- 松平信康(長男・切腹)
- 結城秀康(次男・豊臣秀吉の下で人質)
- 徳川秀忠(三男・二代目将軍)
- 松平忠輝(六男・妻は伊達政宗の娘)
- 徳川義直(九男・御三家の尾張藩祖)
- 徳川頼宣(十男・御三家の紀州藩祖)
- 徳川頼房(十一男・御三家の水戸藩祖)

徳川家康/wikipediaより引用
では残りの五名をご存知でしょうか?
もしかしたら「名前すら聞いたことがない」という方も案外とおられるのでは……ということで本稿では、その知られざる一人に注目。
慶長十二年(1607年)3月5日は、家康の四男・松平忠吉が28歳で亡くなった日です。
松平姓だと「また何かいわくつきか」と嫌な予感がした方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
この方の場合は、親戚の東条松平家というところに世継ぎがいなかったため、「ならばお前が行ってこい」という理由で養子として出されたからです。実に穏やかというか、普通の流れですかね。
東条松平家は、徳川家(松平宗家)が立て続けに当主を暗殺されて危うかったときもずっと味方でいてくれたので、家康も恩義を感じていたのだとか。
こんなイケメンに仕えられるなら死んでもいい
松平忠吉本人はどういう人物だったのか?
というと、若年のうちに亡くなってしまっているので、あまりエピソードは伝わっていません。
複数の記録によれば
「イケメンだった」
「優しいイケメンだった」
「こんなイケメンに仕えられるなら死んでもいい」
「イケメンが大将ならきっと勝てる!!」(超訳)
という記述があります。

松平忠吉/wikipediaより引用
家康の息子の中でもかなり眉目の整った人だったのでしょう。
異母兄弟の秀康や忠輝が顔で苦労したと伝わるのと比べたらエライ違いですね(´・ω・`)
関ヶ原で先陣切って、豊久も討ち取って
母親は西郷局という人で、大河ドラマ『どうする家康』では広瀬アリスさんが演じていた方ですね。
同母兄に2代将軍となる徳川秀忠がいます。

西郷局/Wikipediaより引用
血筋も悪くなく、顔も良く、さらには武士としての器量もあり、それだけに人望もあったのでしょう。
松平忠吉の初陣は関ヶ原の戦いで、見事に島津豊久(義弘の甥っ子)を討ち取っています。
つまり伝説の【島津の退き口】と対峙したわけです。
岳父(妻の父)だった井伊直政など、家康お墨付きのツワモノたちが脇を固めていたとはいえ、本人の度胸もかなり据わっていたはず。
そもそも関ヶ原で「戦いの口火」を切ったのも、忠吉が先攻したからだったという話もあります。

関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡/photo by 立花左近 wikipediaより引用
本来は福島正則が先陣のはずだったところ、逸る忠吉を直政が説得しきれずに出て行ってしまったのだとか。映画やドラマだったら死亡フラグですね。
実は忠吉の配置されたところは秀忠が入るはずの陣だったという話もあります。
この二人は同母だっただけに兄弟仲が良かったようで。
かくして関ヶ原は万々歳で終わった忠吉ですが、その後、思わぬ展開に見舞われます。
武蔵国忍城10万石から清洲52万石へと大出世
関ヶ原の大舞台で、見事に初陣を果たした松平忠吉。
このとき頭に傷を負ってしまいました。本気の島津と戦うとそれだけ危険ということですね。
お供をした井伊直政もこのときの鉄砲傷が遠因でその約1年半後に死亡したとも言われます。

井伊直政/wikipediaより引用
忠吉はそれまでの武蔵国忍城10万石の領地から、関が原での功績で清洲52万石に取り立てられたので、家康もかなり期待していたでしょう。
しかし、それから程なくして慶長十二年(1607年)3月5日に亡くなってしまうのです。
28歳という若すぎる弟の死に、秀忠も非常に悲しんだようで。
家康五男の信吉も、関ヶ原後に病死しているので、徳川家にとっては不幸の多い時期でもありました。
ただし、家康の子供は、当時の基準からするとかなり生存率が高いほうです。
本サイトの歴女医・馬渕まり先生が以下の記事で述べておられますように、
-

三好三人衆とは何者か|信長の上洛に徹底抗戦した“前天下人”たちの行く末
続きを見る
昔の赤ちゃんは成人すること自体が大変でした。
記事によると
・初の人口調査(明治32年)で、生後1年未満の乳幼児死亡率が15%
だそうで。
江戸時代には当然、そのような調査はありませんが、
・成人まで生きられる割合は6-7割程度だったのではないか?
とも目されております。
逆に言えば3~4割は亡くなってしまうものですが、家康の子供で幼いうちに亡くなったのは17人中3人でした。
2割弱ですから、通常に比べて【約2倍以上の生存率】となりますね。
家康の後家好み 実は「子供大好き」か?
家康が後家好みだったことは割と知られています。
おそらくこれが子供の生存率を高めていたのではないでしょうか。
後家ということは既に子供を産んでいる可能性が高く、健康な子供を産める女性の判断基準としてはかなり信憑性があるといえます。
感情ではなく理論的な意味で子供を大事にしていたと見ることもできますね。日本一の権力者になるのですから、それぐらいの冷静さは必要だったのかもしれません。
興味深いことに、三代・徳川家光までは同じくらいの子供に恵まれています。
しかし、時代が下ると将軍の子供が半分以上も10歳未満で亡くなっていたり、頑丈そうな八代徳川吉宗の子供でさえ、5人中2人は早世しているくらいです。

徳川吉宗/wikipediaより引用
これは両親の栄養状態や体の鍛え方も影響してそうですね。
歴代将軍の中には、虫歯が酷かったり脚気を患ったり、戦国時代にはあまり見られなかった病気をしていた人もいました。
脚気は麦飯や玄米(ビタミンB1)で防ぐことができますが、江戸時代は玄米に代わって白米が主食でしたので、それまでより発症例が増えたのでしょう。
虫歯に関しては、白米の摂取に加えて、砂糖の生成技術が進んだことや輸入によって供給が増え、将軍の口にも入るようになったからでしょう。甘党だった将軍もいますし。
また、炊いた後のお米をお湯で洗ったりなど、毒を恐れるあまりいろいろしすぎて栄養が取れなくなっていったという理由もあります。
戦国時代はそんなことしてるヒマありませんから、家康のほうが後の将軍達より栄養状態が良かったかもしれません。
ともかく……忠吉の知名度が低いのは、
・四男
・夭折
・同母兄や他の兄弟が目立つ
といった状況だったからでしょうか。
関ヶ原の話なんてかなり面白いですが、残念ながら2023年の大河ドラマ『どうする家康』では注目されませんでした。
また別の作品に登場することを願いましょう。
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【参考】
国史大辞典
松平忠吉/wikipedia





