幼い主君がトップに立った場合、だいたいその後の経過は二つのパターンに分かれます。
主が成長するまで無事家臣が支えるか。
ここぞとばかりに勢力争いが始まって瓦解するか。
しかし、江戸時代にはどちらにも当てはまらなかった将軍がおりました。
延宝8年(1680年)5月8日に亡くなられた、江戸幕府の四代将軍・徳川家綱です。
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幼い頃に「大岡裁き」で家光大喜び
いろんな意味で強烈な三代将軍・徳川家光と、五代将軍・徳川綱吉に挟まれているため、徳川家綱は「影の薄い徳川将軍」のトップバッターと言えますよね。
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しかし、幼少期のエピソードからするとなかなか聡明な少年だったことがうかがえます。
徳川家の嫡男を示す幼名である”竹千代”と呼ばれていた頃、罪人の処遇に関する話を聞いていたときのことでした。
詳細は不明ながら、当時の刑罰では「最も重いのが死刑、次が流罪(島流し)」とされていたのでその辺の話と思われます。
家綱はふと近臣たちにこんな質問を投げかけました。
「流罪になった者はどうやって暮らしているのだ? 食べるものはあるのか」
これが誰も知らなかったため返答ができず――あるいは知っていて答えなかった人もいたのでしょう。
対して家綱は【答えがない=罪人を流してそのまま放置している】と理解して、次にこんな言葉を続けます。
「それでは命を助けた意味がないではないか」
確かにそれはごもっとも。
この話が父・家光の耳に入ると大喜びして言いました。
「これを竹千代の仕置(仕事)始めにせよ」=「竹千代の言う通り、流罪先に食料を送ってやるように」と命じ、罪人の扱いが改善された……という話です。
家綱だけでなく、千代姫の件も考えると、さすがの家光も子供は可愛かったんですね。
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実にデキ過ぎのような気もしますけども、家綱という人はこの手の慈悲深さをうかがわせるエピソードが多いので、性根の優しい人物であったことは間違いないと思われます。
逸話そのものが本当かどうかというより「優しい人だったから、こういう言動をしたに違いない」という当時の人の願望や理想が現れているのかもしれません。
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根が優しい気性だったせいか。
戦国時代より血生臭さが減っても生々しいことには変わりないこの時代(在位:1651-1680年)の政治の話についてはあまり興味関心がなく、重臣の報告や許可を求める声に「左様せい」と頷くだけだったともいわれています。
ただし「私は幼年だが、父祖の偉業によってこの地位にある」とも言っていたそうなので、能力がない自分が口を出すよりは、海千山千の家臣に任せたほうがいいと考えていた可能性もありますよね。
こういう冷静な判断ができていたとしたら、地味ではありますが【名君】といってもよいのではないでしょうか。
江戸期の出来杉君こと保科正之。
春日局の孫・稲葉正則。
家光が「我が右手」とまで称した酒井忠勝など。
この時代には、血筋的にも能力的にも頼れる重臣がいたからこその判断ですね。
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家光の代までで江戸幕府は概ね安定してはいましたが、反乱やお家騒動で揺れることはありましたし、それでも政権が転覆されるようなことがなかったのは功績に値するでしょう。確かに地味ではあるんですけど。
この姿勢は家光までの「アヤシイ奴と家は断固処断!!」という【武断政治】から、「話を聞いた上で公正に処罰しよう」という【文治政治】への転換期でもありました。
歴史ファン的にとっては「地味になった」。
学生的には「地味に覚えることが増えた」。
そんな感じであまり好まれる変化ではありませんが、文明的には進んでいるので良しとしたいものです。
新井白石も「家綱は貞観政要を読んで政治の参考にしていた」と書いています。
では『貞観政要』とは?
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