渋沢兼子(伊藤兼子)

渋沢栄一や孫たちと渋沢兼子(右端)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

渋沢兼子は妾として渋沢栄一に選ばれ後妻となった?斡旋業者が仲介した複雑な事情

渋沢栄一は明治15年(1882年)、糟糠の妻である千代を失いました。

コレラによる急死であり、呆然とするばかりの渋沢。

それでも、こんなことが言われている明治時代です。

男やもめに蛆が湧き、女やもめに花が咲く――。

不惑を過ぎたばかりの資産家に、後妻がいないとは考えられず、明治16年(1883年)には、さっそく縁談が持ち上がります。

さらにその2年後の明治18年(1885年)末。

渋沢栄一は、妊娠中の渋沢兼子(伊藤兼子)と正式に再婚をしたのでした。

※なお、渋沢家の跡継ぎは千代の孫にあたる渋沢敬三となります

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兼子といつ再婚した?

大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた、この再婚。

配役は大島優子さんでしたが、本稿では史実を追ってみましょう。

渋沢の女性関係は、現代人からは考えられないような乱れ方です。

なんて言うと「そういう時代だから」といった答えが必ず出てきますが、渋沢や、その仲間・伊藤博文に関しては、当時からやり過ぎだと批判されていたものです。

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こうした状況を踏まえ、渋沢栄一と伊藤兼子が結ばれるまでを整理してみますと。

ざっとこんな感じです。

明治15年(1882年)千代死去

明治16年(1883年)この年「再婚していた」という回想もある。少なくとも栄一の近辺に兼子の姿はあったと推察。兼子との間に三男・無相真幻大童子が生まれるも夭折

明治17年(1884年)四男・敬三郎誕生、翌年に夭折

明治18年(1885年)年末に兼子が妊娠した状態で、正式に再婚

明治19年(1886年)五男・武之助誕生

正式な結婚には諸説ありますが、千代の死からほどなくして再婚し、かつ子が生まれていたことは確かでしょう。

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では、兼子と栄一はどのように知り合い、結婚したのか。

 


兼子の実家は豪商だったが

江戸時代から明治へ――。

こう書くと、日本の未来が開かれた夜明けのようなイメージが湧いてきます。

しかし、明治時代になることで苦しんだ人々も少なくありません。

幕臣や奥羽越列藩同盟の武士の女性は没落し、芸妓になることすらありました。

幕末の四賢候に数えられる松平春嶽の娘(絲子)までそうだったのですから、大変なものです。

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渋沢の後妻となる渋沢兼子は、こうした武士の娘ではなく、伊藤八兵衛の娘でした。

伊勢八という屋号の油屋で、水戸藩の信頼も篤い豪商。

元治元年(1864年)に天狗党が挙兵すると、小判五万両を出すよう命じられ、三万両を出したとされます。

維新前夜も、五万両献金したとされますが、異説もあります。

耕雲斎の孫・金次郎が「一万両を出せ、さもなくば命を奪うぞ!」と脅したところ拒絶し、牢屋に入れられたというのです。家族が一万両で見受けすると「この首は一万両の値打ちか」とうそぶいたとか。

なぜこうも話が違うのか?

どこに焦点を置くかで事情が変わってきます。

天狗党や新政府にドンと献金したとなれば、維新の功労者として名を残す。いわば維新を支持する側に知名度が上がる。

一方で「天狗党相手に屈しなかった」となれば、水戸や関東で「すごい度胸だ!」となる。

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いずれにせよ名声を高めるための話でしょう。

確かなことは、

・水戸藩と繋がりがあり

・万両単位のお金を動かせたこと

でしょうか。

明治時代に豪商として伝記が流通したからには、傑物ではあったのです。

 


いくらなんでも妾はない!

しかし、そんな伊藤八兵衛も、時代の趨勢で躓きました。

明治時代はシステムが大きく変わり、ついていけないとなるとスグに失脚します。

武士が商人になって失敗した話はあちこちにありますが、餅は餅屋のはずの商人ですらそうだったのです。

関西の場合は、銀本位制の廃止が大きな要因となりました。

水戸となれば事情は異なります。

伊藤八兵衛の場合は、明治初期に横浜居留区のアメリカ商人と取引をし、赤字を出したことが契機となり、あっという間に没落してしまったのです。

明治時代はシステムが不安定、かつ救済の仕組みはありません。

8人いた伊藤八兵衛の嫡子のうち、兼子は五女でした。婿養子もおりましたが、家の没落で離縁したとされます。

こうなったとき、明治の女にできる選択肢は多くありません。

遊郭には、家族を救うため身を沈めた女性がおりましたし、前述の通り松平春嶽の娘・絲子ですら芸者になったほど。

兼子もまた

「私は芸が好きだから、芸妓になる。この身を金に変えます」

そう言い切って、口入れ屋に紹介されました。

口入れ屋とは、職業斡旋業者のことです。そこで

「芸妓にはなれないけれど、お妾の話ならばある」

と言われるのでした。

妾だなんて、いくらなんでもそれはない!

そう拒んだ兼子ですが、何らかの動機で承諾。渋沢家に入ったのですが、その理由についてはいくつか考えられたりしています。

それに則って、ちょっと推理してみましょう。

兼子は栄一に対してどんな思いを抱いていたか?

1 純粋に同情した(コレラで妻を亡くして気の毒だと思った)

2 金目当て。あるいは好みだったとか?

よく語られるこの手のストーリーは、いかにも陳腐で、他に何かないのか?と思ってしまいませんか。

当初、兼子は妾の予定だったはず。

それが正妻とは何があったのか?

むろん、栄一が兼子を気に入ったのでしょうが、後妻を迎えるには渋沢家内での反対もありました。

千代を慕う娘の歌子がよい顔をしない。

数年前から同居していて、面識のある妾・くにのほうが再婚相手にふさわしいという意見があったのです。

そこで当時、話題になった理由がコチラです。

実は栄一は、八兵衛のもとで丁稚奉公していたのではないか?

渋沢栄一が選んだほどの女性であるからには、何か劇的な話があるのだろう。

明治の人はそう考え、兼子については様々な話が「盛られた」形跡があります。

しかし史実はあくまで、口入れ屋という斡旋業者が介入した縁であり、現代人が思うほどロマンチックなものではない可能性のほうが高いでしょう。

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