戦に勝つのも政略結婚や人質に子供を差し出すのも、権勢を持つ人物に擦り寄るのも全てはこのため。
人間に限らず生物共通の「子孫を残す」という本能が発展したものともいえそうです。
しかし、何故かこの難事を成し遂げたにもかかわらず、一般的な知名度や評価が低い人物は珍しくありません。
慶長十六年(1611年)4月7日、浅野長政が亡くなりました。
豊臣政権五奉行の筆頭として知られますね。
命日は6日説もありますが、ここでは7日として進めて参ります。
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他の長政 目立ちすぎ問題
浅野長政の妻は、寧々(ねね・おね・高台院)の義妹。
寧々は豊臣秀吉の正室ですので、長政と秀吉は妻を介しての義兄弟になりますね。
政治的には五奉行の筆頭であり、結構重要な立ち位置の人です。
その割に知名度は低い。
なぜか?
一つは同じ五奉行の石田三成が異様に目立つこと。
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そしてもう一つは、(私のかなり勝手な考えですが)戦国時代にやたらと【長政という他の武将が活躍する】からではないでしょうか。
最もインパクトのあるのが織田信長の義弟で、悲劇のイメージも強い浅井長政でしょう。一文字しか違いません。
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他にも著名な「長政」を列挙してみましょう。
こうなったら、織豊政権時代にもう一人の長政が欲しかったですね。
そうしたら、今頃、ご当地アイドルか何かで
「ナガマサファイブ」
とか
「◯◯戦隊ナガマサン」
とか作られていたかも……。
冗談はさておき、こうした著名な長政に囲まれ、浅野長政に強烈なインパクトが欠ける――という事情も、知名度の上がらない要因になっているかもしれません。
そんな浅野長政の生涯を見て参りましょう。
信長「親戚同士で協力して仕事せい」
浅野長政は、信長に仕えていた叔父さんの家に婿養子に入りました。
妻の名は、やや(長生院)で、それがキッカケで出世の糸口を掴みます。
前述の通り、後に豊臣秀吉の正室となる寧々(ねね・おね・高台院)が同じ家の養女だったため、秀吉夫妻と義理の兄弟になったのです。
長政=やや(義理の姉妹)ねね=秀吉
↑
こんな感じですね。
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そこで信長が「じゃあ親戚同士協力して仕事しろ」と命じ、秀吉と長政は一緒に行動するようになります。
余談ですが、あれだけ親族間の争いに手こずった信長がこういうことを言っているのは、何だか切ない気がしますね……どんな気持ちだったんでしょうか。気にしてなかったかもしれませんが。
そしてややこしいことに、浅井長政の本拠・小谷城攻めにも浅野長政は参加。秀吉がここの主になると、長政も近隣に領地をもらいました。
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考えてみたら、仮にナガマサファイブ(仮)が結成されても、仲間割れする可能性が高いですよね。
秀吉政権の財務大臣
浅野長政はその後も秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いなどで戦功を上げました。
秀吉の信頼も厚く、京都奉行や太閤検地の担当者など、要職を続けて務めています。
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その関係か、統一の過程で諸大名から取り上げた金山・銀山の管理なども担当していたようです。
現代日本でいえば財務大臣というところでしょうか。
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長政はこれに加えて諸大名との交渉役(取次)も担当していて上方にいることが多かったため、領地の管理などは息子・浅野幸長が担当していました。
一族経営の会社は腐敗することが多い気がしますが、こんな風に役割分担がはっきりしていたらいいですよね。部下もやる気が出るんじゃないでしょうか。
しかし……。
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