大河ドラマ『光る君へ』の第22回放送から登場している宋の商人・朱仁聡とは何者なのか?
いったい劇中でどんな役割があるのか?
朱仁聡を演じる俳優・浩歌(ハオゴー)さんへの興味も相まって、ファンの間では早くから意見が飛び交ってきました。
大河ドラマではあまり聞き慣れない「宋の商人」というポジションだけではなく、藤原為時や主人公まひろとの関係性も漂っていて、余計に関心を集めたのでしょう。
そしてついに第22回放送に登場。
70人の宋人を率いる長として人格者であることを漂わせながら、朝廷へ貢物を送る静かな笑みの裏には、何か意図もありそうで一筋縄ではいかない印象があります。
そこで本記事では、平安時代の交易状況などを踏まえ、実在した朱仁聡がドラマでいかなる役割を果たすのか、考察してみましょう。
中国語発音表記の役名に
本作『光る君へ』の朱仁聡に注目するときに欠かせないのが、同時に出演する周明(ヂョウ・ミン)でしょう。
松下洸平さんが演じる医師見習いであり、「名前の読み方が“ヂョウ・ミン”という点からして、大河ドラマとしては挑戦的な試みである」と以下の記事にも記しました。
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記事を読んでいただいた皆様にはダブってしまう内容ですが、例えば『鎌倉殿の13人』に登場した陳和卿は「ちん・なけい」と読んでいます。
しかし『光る君へ』では、朱仁聡はこうなる。
朱仁聡(ヂュ・レンツォン/Zhū Réncōng)
要は、中国語の読み方なんですね。
日本語にせよ中国語にせよ、発音は時代によって変わるため、このころ実際に読んでいたかどうかはまた別の話で、ともかく中国語に即した発音となっています。
ちなみに中国語圏では、カナ表記の人名も漢字になり、ヒロインの「まひろ」は海外ファンの間では「真尋」となる。
「真実を尋ねる」という、彼女に似合った表記ですよね。
というわけで、中国語読みの朱仁聡(ヂュ・レンツォン)ですが、この宋の商人を演じる浩歌(ハオゴー)さんの経歴もまた非常に魅力的です。
彼は、2000年代から中国で活躍し、「中国で最も有名な日本人」とされています。
芸名を「矢野浩二」から「浩歌(ハオゴー)」に変え、朝の連続小説『ブギウギ』にも登場。
中国語を流暢に話す彼は、中国版Instagramとして人気のRED(小紅書)でも動画を公開しており、そこでも非常に人気を集めているのです。
「矢野か! 彼の中国語ならば全く問題ないな」
ネイティブからもそんな支持を得て、待望の大河出演となれば、注目されてしかるべきでしょう。
大河ドラマにおける逆輸入俳優の歴史
日本から中国に渡って活躍し、中国人として日本のドラマに出演する――いわば逆輸入俳優が大河に出ることは、史上初ではありません。
パッと思いつくのは『青天を衝け』のディーン・フジオカさんかもしれませんが、さらに先例があるのです。
1971年『春の坂道』で陳元贇(ちんげんぴん)役を演じた倉田保昭さん。
陳元贇は明滅亡の際に日本へ亡命した人物であり、様々な文化を日本に伝えたとされ、その中に中国拳法もあったとされます。
『春の坂道』は柳生宗矩が主役で、倉田さんはカンフーマスターとしての役割が期待されました。
倉田さんはもともと香港と台湾映画で活躍し、クールな日本人悪役を当たり役とした俳優。
海外では日本人としての個性を発揮しながら、日本に帰国するとカンフーの使い手役や中国からの刺客扱いが多いものでした。
今回の浩歌さんも、倉田さんと経歴は似ています。
二人とも海外で日本人悪役を誠実に演じて人気を博し、日本への凱旋帰国と共に中国からの役を演じるのです。
倉田さんの活躍がわかる一例に、映画『戦神ゴッド・オブ・ウォー』があり、これが日本の武士も非常に格好よく描かれ、内容も見応えありますので、みなさんもよろしければどうぞ。
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『光る君へ』の浩歌さんも、きっと海外から注目を集めることでしょう。
では、平安時代を舞台に浩歌さんが演じる宋の商人・朱仁聡にはどんな役割があるのか――「交易の歴史」を振り返りながら考察して参りましょう。
あなたは何のために日本へ?
中国から海を超えて日本にやってくる人々は、実は商売だけが全てではありません。
様々な目的があり、以下に列挙してみます。
◆移住
不老不死の薬を求めた始皇帝が、「徐福を東の蓬莱へと派遣した」という伝説があります。この「蓬莱」は日本であるとされています。
徐福の船には童男童女が同乗していたとされ、日中両国でこの伝説は語り継がれてきました。
徐福はあくまで伝説的なものとされますが、現実に、中国大陸を経由した渡来人が日本に多く辿り着いて定住したことはDNA解析からも判明しています。
大人気中国ドラマ『陳情令』は、魏晋時代がモチーフ。
同作品では「東の島に逃れるから許してくれ!」と悪役が訴える場面があり、何らかの理由により、大陸にいられなくなった人々が東を目指すことはあったのでしょう。
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『三国志』の後も、乱世は続いてゆきます。
人口が激減したことが記録からわかりますが、この激減は死亡を示しただけとは考えらません。戦乱を逃れ、日本を目指した人がいかに多かったか推察できます。
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◆渡来僧
仏教を広めるために渡来した僧侶たちは、鑑真を代表として数多くいます。

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◆技術者
陳和卿のように、高い技術を求めた日本からの招聘に応じた人々もいます。
鎌倉大仏や鎌倉彫には彼らの伝えた技術が見てとれる。
日本の漆器は表面が平らであることが多いものです。一方で中国では、漆器に彫刻を施すことが多い。鎌倉彫はこうした中国漆器の特徴が見られます。
『光る君へ』に登場する周明(ヂョウ・ミン)は医者設定です。
中国の医術は長らく最先端のものとされ、日本は熱心に学んできました。
平安時代ともなると、上級貴族はここぞとばかりに唐人(どの時代でも中国人はこう呼びます)の医者を探し求めていたものでした。
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◆外交官
日本史上、最も手痛い外交の失敗は「通商を求める元(ゲン)からの使者を斬ってしまったこと」でした。
【元寇】の原因です。
元朝は、侵略ではなく通商を求めていて、それを理解できなかった鎌倉幕府に問題があります。
現在でも、モンゴル出身の力士が元使慰霊碑を参拝する姿が見られるそうです。
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◆商人
朱仁聡のように、商売目的の人々も当然います。
江戸時代の長崎出島には清人居住区「唐人屋敷」があり、ここで暮らし、命を終える清人もおりました。
◆亡命
漢族ではない元朝や清朝の支配に屈することのできない亡命者の中にも、日本を目指した者がいます。
陳元贇もその一人。
あるいは朱舜水などもそうで、彼は水戸藩に受け入れられ、思想に大きな影響を与えました。
◆留学生
日本が明治時代に突入すると、清人は悩みました。
「なぜ我が国では明治維新が成し遂げられないのか?」
我々も新時代を作りたい――そう信じて日本を目指す留学生がいました。
魯迅は指導教官の「藤野先生」こと藤野厳九郎に感銘を受けたことが有名です。
◆違法集団
明代に猛威を振るった【倭寇】は、日本人だけで構成されているというよりも、日本が関係した多国籍犯罪者集でした。
その中でも有名な王直(汪直とも)は日中双方の歴史に名を残しています。
近年では【鉄砲伝来】もこうした【倭寇】活動によってもたらされたとする説もあります。
このように海を超え、両国は長く付き合ってきました。
歴史の授業でもお馴染みの【遣隋使】【遣唐使】【遣明使】は、あくまで国家間の正式な往来。
それが絶えた時代は交流がなかったのか?というとそんなわけはなく、民間での交流はずっと続いていたのです。
宋とは交易で交流する
【白村江の戦い】で大敗を喫した日本は、【律令制度】はじめ様々な制度を学び、国家としての基礎を築き上げてきました。
その痕跡はいくつも日本史に残されています。
例えば【上洛】という言葉に注目してみましょう。
かつて左京を「洛陽」、右京を「長安」と呼びました。このうち左京が発展し、洛陽の「洛」が残った名残が【上洛】という言葉です。
しかし、そのお手本となる唐が滅びてしまうと、遣唐使もなし崩し的に終わってしまい、日本は独自の道を模索するようになりました。
日本史では様々なきっかけで、海外から吸収しようとする時代と、ゆるやかに独自発展を遂げる時代が交替しています。
中国が宋である平安中期は、ゆるやかな時代に入ります。
文字通り平安で良い時代なようで、危機管理意識があまり高くないのが特徴。
平安京での政治闘争に夢中になるあまり、地方に船が漂着しても「対応がめんどくさいなぁ……」と、どこか鬱陶しがるような空気も漂っていた。
外交は積極的でありません。
とはいえ、当時の貴族は【唐物】抜きでは生活が成立しない。
絹にせよ、陶磁器にせよ、毛皮、香木、椰子の葉にせよ……ありとあらゆるものが貿易に依存していた。
そこで注目されるのが宋商人の朱仁聡というわけです。
為時の苦境を救った唐人
朱仁聡(ヂュ・レンツォン)は、中国側の史書に取り上げられているわけでもない、ごく普通の商人と考えられます。
それが日本まで物品を売りに来て、あれよあれよと長期滞在することになったため、色々と伝説を付与された形跡もある。
しかし『光る君へ』に登場する意義は大いにあるでしょう。
それというのも、越前に漂着した彼の対処をするため、紫式部の父である藤原為時が受領に任じられたとも思えるのです。
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藤原為時は苦労人でした。
当時の中級以下の貴族といえばそんなもので、エリート貴公子が高速出世を遂げていく中、除目(じもく・官職に任ぜられること)を待つしかありません。
藤原為時は漢籍教養に自信はあったものの、どうにもパッとしない。
しかも花山天皇に仕えていたため、その出家と共に出世の道から外されてしまったことは、彼の娘である紫式部にとっても極めて不幸でした。
結婚適齢期を迎えたにもかかわらず、父は財産がない。つまり誰も求婚してこない。
藤原為時は漢文学者であり『今昔物語』にこんな逸話が載せられています。
長徳2年(996年)、為時は一条天皇に自作の漢詩を届けることに成功しました。
苦学寒夜、紅涙沾袖
苦学の寒夜、紅涙袖を沾(うる)おす
除目春朝、蒼天在眼
除目(じもく)の春朝、蒼天眼(まなこ)に在り
私は寒い夜でも、血の涙で袖を濡らしつつ、勉学に励んできました
待望の除目を迎えた春の朝、そこで目にしたのは、青空だけだなんて(名前がないことを嘆いているという意味)
一条天皇はこれを見て、ろくに食事もとらず、涙を流したとされますが、そのようなロマンは物語上のものとみなせます。
実際には、生々しい理由があるようなのです。
中国語スキルを活かせるチャンスに飛びついた為時
前年の長徳元年(995年)、「唐人(中国人)」70名余りが若狭国に流れ着いた一件が朝廷で審議されていました。
そんなタイミングで、中国語スキル(要するに漢文能力)をアピールする人物がいる。
中国船が来て困っているならば、中国語ができる担当者を越前守として派遣しよう――そう判断されたところで、何の不思議もありませんよね。
菅原道真以降、実力による登用は減ったとされます。その数少ない例外が藤原為時でしょう。
父が任官となれば、娘の紫式部にも結婚のチャンスが巡ってきます。
為時と紫式部の父娘にとって、朱仁聡は恩人と言えるのかもしれません。
結局、朱仁聡は5年ほど若狭・越前国に滞在しました。
そこで暴力事件や金銭受領トラブルも生じています。
問題があったからこそ記録に残されているのであり、穏やかに過ごしている限りは特に何も残りません。時々問題はあったとはいえ、馴染んでいたから5年もいたのでしょう。
そして為時が応対すべく派遣された意義も見えてきます。
一条天皇は、「高麗人」(朝鮮人・当時の認識は曖昧なので必ずしも出身地と一致しない・大雑把な外国人という意味あいもある)と詩による交流をして欲しかったとか。
そのとき為時が詠んだ詩が記録に残されていますので、紫式部がその場にいて、父の晴れ姿を見ていてもおかしくはないでしょう。
相手からは技術的には今ひとつと評価されたようですが、それでも交流できればよいのです。
勉学はできても出世できない父が、学んだ知識を活かす姿はとても頼もしく思えたはず。
こうした生きた海外との交流は、紫式部にさまざまな刺激を与えたことが想像できます。
北宋から南宋、そして元へ
日本と宋のゆるい関係は、やがて大転換期を迎えます。
1126年の【靖康の変】により、北宋は領土の北半分を失い、日本は北半分を支配する金朝ではなく、南宋と交流を続けます。
南宋にとって日本の重要性は増しました。
北にある金銀が得られなくなったため、日本からの金が重視されたのです。
これが日本の政治にも影響を与えます。
砂金が算出する奥州藤原氏の権威がますます高まる。
そしてこの状況を見て、南宋との交易をますます強化したのが平清盛でした。彼のめざした【福原京】は交易を活性化させるための構想です。
実際、南宋から流れ込む銅銭は、日本で初めて広範囲で流通する通貨となっています。
平家滅亡によりこの流れは止まったようで、そうはなりません。
源実朝の唐船派遣構想は挫折したものの、北条泰時が引き継ぎ、鎌倉幕府と南宋、そして元の交易は続きました。
しかしその後の鎌倉幕府は、さらなる交易拡大を求めた元使を切り捨ててしまい、【元寇】を引き起こすという致命的なミスを犯し、幕府は衰退してしまいます。
日本史とは、海を隔てた中国の影響を受けつつ、進行していたのです。
宋という時代は、日本では馴染みが薄いように思えますが、様々なものが今も残されています。
栄西は熱心に抹茶を推奨し、日本に根付かせた。
中国では明代に抹茶禁止令が出されたため、日本にこそ「宋代の茶道が残る」という大変興味深い現象が見られます。
鎌倉大仏は、宋の様式であり、かつ宋銭を鋳潰して建てられたという分析もあるほど。
青空を写したような青磁は日本人を魅了し、特に武士たちが好んで所有しました。大名ともなれば客人をもてなす際、使うことがマナーとされたのです。今も各地の博物館で見られます。
朱子学は江戸時代に林羅山ら儒学者がもたらし、江戸幕府の根幹を為す思想とされました。
宋を舞台した『水滸伝』『金瓶梅』『白蛇伝』などの物語は日本でも愛されてきました。
南宋最後の忠臣とされる文天祥『正気之歌』は忠臣の手本。
藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫たちは己の『正気之歌』を詠みあげました。明治維新をめざす志士たちを鼓舞した言葉の中には、実は宋代由来のものもあるのです。
宋代の技術や文化の伝える担い手は、主に仏僧でした。
宋代は料理も技術的に進化したものですが、仏僧にとって肉料理、ニンニクを多用する料理は禁忌です。
いかにおいしい東坡肉(トンポーロー)があっても、仏僧は箸すらつけられません。揚げ物も好みません。
和食と中華料理の違いは、宋代から明確になります。和食は仏教の影響を大きく受けた食文化です。
宋代は印刷術が始まった時代でもあります。
そんな時代に宋で学んできた仏僧は、知識のインプット量が極めて高くなります。
戦国大名が家庭教師として僧侶を招聘することはしばしば見られます。太原雪斎、快川紹喜、虎哉宗乙など。中国では仏僧が教育を担うことはありません。大変珍しい現象です。
こうした仏僧から学んだ戦国大名が、「風林火山」を旗にしたり、漢詩を読むのは知性アピールの象徴でした。
浩歌さんが演じる朱仁聡が、日本と宋の距離を近づけることを期待しましょう。
参考文献
岡本隆史『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(→amazon)
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝 (講談社学術文庫)』(→amazon)
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon)
小島毅『義経から一豊へ 大河ドラマを海域にひらく』(→amazon)
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