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【朱仁聡】
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あなたは何のために日本へ?
中国から海を超えて日本にやってくる人々は、実は商売だけが全てではありません。
様々な目的があり、以下に列挙してみます。
◆移住
不老不死の薬を求めた始皇帝が、「徐福を東の蓬莱へと派遣した」という伝説があります。この「蓬莱」は日本であるとされています。
徐福の船には童男童女が同乗していたとされ、日中両国でこの伝説は語り継がれてきました。
徐福はあくまで伝説的なものとされますが、現実に、中国大陸を経由した渡来人が日本に多く辿り着いて定住したことはDNA解析からも判明しています。
大人気中国ドラマ『陳情令』は、魏晋時代がモチーフ。
同作品では「東の島に逃れるから許してくれ!」と悪役が訴える場面があり、何らかの理由により、大陸にいられなくなった人々が東を目指すことはあったのでしょう。
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『三国志』の後も、乱世は続いてゆきます。
人口が激減したことが記録からわかりますが、この激減は死亡を示しただけとは考えらません。戦乱を逃れ、日本を目指した人がいかに多かったか推察できます。
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◆渡来僧
仏教を広めるために渡来した僧侶たちは、鑑真を代表として数多くいます。
◆技術者
陳和卿のように、高い技術を求めた日本からの招聘に応じた人々もいます。
鎌倉大仏や鎌倉彫には彼らの伝えた技術が見てとれる。
日本の漆器は表面が平らであることが多いものです。一方で中国では、漆器に彫刻を施すことが多い。鎌倉彫はこうした中国漆器の特徴が見られます。
『光る君へ』に登場する周明(ヂョウ・ミン)は医者設定です。
中国の医術は長らく最先端のものとされ、日本は熱心に学んできました。
平安時代ともなると、上級貴族はここぞとばかりに唐人(どの時代でも中国人はこう呼びます)の医者を探し求めていたものでした。
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◆外交官
日本史上、最も手痛い外交の失敗は「通商を求める元(ゲン)からの使者を斬ってしまったこと」でした。
【元寇】の原因です。
元朝は、侵略ではなく通商を求めていて、それを理解できなかった鎌倉幕府に問題があります。
現在でも、モンゴル出身の力士が元使慰霊碑を参拝する姿が見られるそうです。
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◆商人
朱仁聡のように、商売目的の人々も当然います。
江戸時代の長崎出島には清人居住区「唐人屋敷」があり、ここで暮らし、命を終える清人もおりました。
◆亡命
漢族ではない元朝や清朝の支配に屈することのできない亡命者の中にも、日本を目指した者がいます。
陳元贇もその一人。
あるいは朱舜水などもそうで、彼は水戸藩に受け入れられ、思想に大きな影響を与えました。
◆留学生
日本が明治時代に突入すると、清人は悩みました。
「なぜ我が国では明治維新が成し遂げられないのか?」
我々も新時代を作りたい――そう信じて日本を目指す留学生がいました。
魯迅は指導教官の「藤野先生」こと藤野厳九郎に感銘を受けたことが有名です。
◆違法集団
明代に猛威を振るった【倭寇】は、日本人だけで構成されているというよりも、日本が関係した多国籍犯罪者集でした。
その中でも有名な王直(汪直とも)は日中双方の歴史に名を残しています。
近年では【鉄砲伝来】もこうした【倭寇】活動によってもたらされたとする説もあります。
このように海を超え、両国は長く付き合ってきました。
歴史の授業でもお馴染みの【遣隋使】【遣唐使】【遣明使】は、あくまで国家間の正式な往来。
それが絶えた時代は交流がなかったのか?というとそんなわけはなく、民間での交流はずっと続いていたのです。
宋とは交易で交流する
【白村江の戦い】で大敗を喫した日本は、【律令制度】はじめ様々な制度を学び、国家としての基礎を築き上げてきました。
その痕跡はいくつも日本史に残されています。
例えば【上洛】という言葉に注目してみましょう。
かつて左京を「洛陽」、右京を「長安」と呼びました。このうち左京が発展し、洛陽の「洛」が残った名残が【上洛】という言葉です。
しかし、そのお手本となる唐が滅びてしまうと、遣唐使もなし崩し的に終わってしまい、日本は独自の道を模索するようになりました。
日本史では様々なきっかけで、海外から吸収しようとする時代と、ゆるやかに独自発展を遂げる時代が交替しています。
中国が宋である平安中期は、ゆるやかな時代に入ります。
文字通り平安で良い時代なようで、危機管理意識があまり高くないのが特徴。
平安京での政治闘争に夢中になるあまり、地方に船が漂着しても「対応がめんどくさいなぁ……」と、どこか鬱陶しがるような空気も漂っていた。
外交は積極的でありません。
とはいえ、当時の貴族は【唐物】抜きでは生活が成立しない。
絹にせよ、陶磁器にせよ、毛皮、香木、椰子の葉にせよ……ありとあらゆるものが貿易に依存していた。
そこで注目されるのが宋商人の朱仁聡というわけです。
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