朱仁聡(浩歌 ハオゴー)

画像はイメージです(五代南唐『韓煕載夜宴図』顧閎中作/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』宋の商人・朱仁聡(浩歌)は実在した?為時と紫式部の恩人と言える?

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朱仁聡
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為時の苦境を救った唐人

朱仁聡(ヂュ・レンツォン)は、中国側の史書に取り上げられているわけでもない、ごく普通の商人と考えられます。

それが日本まで物品を売りに来て、あれよあれよと長期滞在することになったため、色々と伝説を付与された形跡もある。

しかし『光る君へ』に登場する意義は大いにあるでしょう。

それというのも、越前に漂着した彼の対処をするため、紫式部の父である藤原為時受領に任じられたとも思えるのです。

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藤原為時は苦労人でした。

当時の中級以下の貴族といえばそんなもので、エリート貴公子が高速出世を遂げていく中、除目(じもく・官職に任ぜられること)を待つしかありません。

藤原為時は漢籍教養に自信はあったものの、どうにもパッとしない。

しかも花山天皇に仕えていたため、その出家と共に出世の道から外されてしまったことは、彼の娘である紫式部にとっても極めて不幸でした。

結婚適齢期を迎えたにもかかわらず、父は財産がない。つまり誰も求婚してこない。

藤原為時は漢文学者であり『今昔物語』にこんな逸話が載せられています。

長徳2年(996年)、為時は一条天皇に自作の漢詩を届けることに成功しました。

苦学寒夜、紅涙沾袖

苦学の寒夜、紅涙袖を沾(うる)おす

除目春朝、蒼天在眼

除目(じもく)の春朝、蒼天眼(まなこ)に在り

私は寒い夜でも、血の涙で袖を濡らしつつ、勉学に励んできました

待望の除目を迎えた春の朝、そこで目にしたのは、青空だけだなんて(名前がないことを嘆いているという意味)

一条天皇はこれを見て、ろくに食事もとらず、涙を流したとされますが、そのようなロマンは物語上のものとみなせます。

実際には、生々しい理由があるようなのです。

 


中国語スキルを活かせるチャンスに飛びついた為時

前年の長徳元年(995年)、「唐人(中国人)」70名余りが若狭国に流れ着いた一件が朝廷で審議されていました。

そんなタイミングで、中国語スキル(要するに漢文能力)をアピールする人物がいる。

中国船が来て困っているならば、中国語ができる担当者を越前守として派遣しよう――そう判断されたところで、何の不思議もありませんよね。

菅原道真以降、実力による登用は減ったとされます。その数少ない例外が藤原為時でしょう。

父が任官となれば、娘の紫式部にも結婚のチャンスが巡ってきます。

為時と紫式部の父娘にとって、朱仁聡は恩人と言えるのかもしれません。

結局、朱仁聡は5年ほど若狭・越前国に滞在しました。

そこで暴力事件や金銭受領トラブルも生じています。

問題があったからこそ記録に残されているのであり、穏やかに過ごしている限りは特に何も残りません。時々問題はあったとはいえ、馴染んでいたから5年もいたのでしょう。

そして為時が応対すべく派遣された意義も見えてきます。

一条天皇は、「高麗人」(朝鮮人・当時の認識は曖昧なので必ずしも出身地と一致しない・大雑把な外国人という意味あいもある)と詩による交流をして欲しかったとか。

そのとき為時が詠んだ詩が記録に残されていますので、紫式部がその場にいて、父の晴れ姿を見ていてもおかしくはないでしょう。

相手からは技術的には今ひとつと評価されたようですが、それでも交流できればよいのです。

勉学はできても出世できない父が、学んだ知識を活かす姿はとても頼もしく思えたはず。

こうした生きた海外との交流は、紫式部にさまざまな刺激を与えたことが想像できます。

 


北宋から南宋、そして元へ

日本と宋のゆるい関係は、やがて大転換期を迎えます。

1126年の【靖康の変】により、北宋は領土の北半分を失い、日本は北半分を支配する金朝ではなく、南宋と交流を続けます。

南宋にとって日本の重要性は増しました。

北にある金銀が得られなくなったため、日本からの金が重視されたのです。

これが日本の政治にも影響を与えます。

砂金が算出する奥州藤原氏の権威がますます高まる。

そしてこの状況を見て、南宋との交易をますます強化したのが平清盛でした。彼のめざした【福原京】は交易を活性化させるための構想です。

実際、南宋から流れ込む銅銭は、日本で初めて広範囲で流通する通貨となっています。

平家滅亡によりこの流れは止まったようで、そうはなりません。

源実朝の唐船派遣構想は挫折したものの、北条泰時が引き継ぎ、鎌倉幕府と南宋、そして元の交易は続きました。

しかしその後の鎌倉幕府は、さらなる交易拡大を求めた元使を切り捨ててしまい、【元寇】を引き起こすという致命的なミスを犯し、幕府は衰退してしまいます。

日本史とは、海を隔てた中国の影響を受けつつ、進行していたのです。

宋という時代は、日本では馴染みが薄いように思えますが、様々なものが今も残されています。

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中国では明代に抹茶禁止令が出されたため、日本にこそ「宋代の茶道が残る」という大変興味深い現象が見られます。

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鎌倉大仏は、宋の様式であり、かつ宋銭を鋳潰して建てられたという分析もあるほど。

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青空を写したような青磁は日本人を魅了し、特に武士たちが好んで所有しました。大名ともなれば客人をもてなす際、使うことがマナーとされたのです。今も各地の博物館で見られます。

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宋を舞台した『水滸伝』『金瓶梅』『白蛇伝』などの物語は日本でも愛されてきました。

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南宋最後の忠臣とされる文天祥『正気之歌』は忠臣の手本。

藤田東湖吉田松陰広瀬武夫たちは己の『正気之歌』を詠みあげました。明治維新をめざす志士たちを鼓舞した言葉の中には、実は宋代由来のものもあるのです。

宋代の技術や文化の伝える担い手は、主に仏僧でした。

宋代は料理も技術的に進化したものですが、仏僧にとって肉料理、ニンニクを多用する料理は禁忌です。

いかにおいしい東坡肉(トンポーロー)があっても、仏僧は箸すらつけられません。揚げ物も好みません。

和食と中華料理の違いは、宋代から明確になります。和食は仏教の影響を大きく受けた食文化です。

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宋代は印刷術が始まった時代でもあります。

そんな時代に宋で学んできた仏僧は、知識のインプット量が極めて高くなります。

戦国大名が家庭教師として僧侶を招聘することはしばしば見られます。太原雪斎、快川紹喜、虎哉宗乙など。中国では仏僧が教育を担うことはありません。大変珍しい現象です。

こうした仏僧から学んだ戦国大名が、「風林火山」を旗にしたり、漢詩を読むのは知性アピールの象徴でした。

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浩歌さんが演じる朱仁聡が、日本と宋の距離を近づけることを期待しましょう。


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文:小檜山青
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【参考文献】
岡本隆史『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(→amazon
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝 (講談社学術文庫)』(→amazon
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon
小島毅『義経から一豊へ 大河ドラマを海域にひらく』(→amazon

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