川に浮かぶ疫病の犠牲者や、カラスに突かれてしまう人間の遺体など。
大河ドラマ『光る君へ』では、現実を包み隠さない描写が話題になりましたが、それでもどうしたって描ききれなかったのが庶民や下級役人のトラブルや動向でしょう。
彼らの間では、花山院のように濃キャラの人物が注目されることもなければ、【長徳の変】のようにダイナミックな政変も起きない。
だからといって「そこで何も起きてなかったの?」と問われれば決してそんなワケもなく、例えば藤原公任がメモ書きのように残していた記録からも、当時の生々しい記録が蘇ってきます。
では、いったい庶民や下級役人の間では、実際にどんなトラブルが起きていたのか?
公任の残した『三条家本北山抄裏文書』から振り返ってみましょう。
※『三条家本北山抄裏文書』とは……藤原公任が検非違使庁の書類を裏紙として使っていたものが、思わぬ形で現在にまで残されたもの(リアリティが高い)
長徳三年(997年)同族同士の襲撃事件
河内の豪族・美努氏(みの)の内輪揉めといえる出来事です。
美努氏は御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)の祭神を祖先とする一族で、現在の大阪府八尾市にいました。
そこで起きたのが、前淡路掾(じょう・国司の階級)である美努兼倫(かねとも)が、同族の美努公忠(きみただ)に襲撃されるという事件です。
深夜、公忠はゴロツキを率いて兼倫の屋敷を襲撃。
一家の者と使用人たちを縛り上げ、家財を一切合切盗んでいったのです。
そのままだったら兼倫たちの命も危うかったと思われますが、幸い近所の人々が異変を察知し、この地に居合わせた河内守の郎党・源訪が公忠に説明を求めます。
すると公忠一派は、その場から逃げ出し、兼倫らは命拾いしたのでした。
兼倫一家は、価値のある物も無い物も根こそぎ持っていかれたため、その後の生活にはだいぶ困ったことでしょう。
当然、兼倫は、後日この件を検非違使庁へ訴えます。
すると、公忠らは以前から「太皇太后職・美努真遠の命」として兼倫らの殺害を狙っていたそうで、その噂の真偽を確かめるため、検非違使が調査する予定だったというではないですか。
結局、検非違使が来る直前に、公忠が事件を起こしてしまったんですね。
なお、太皇太后職とは、その名の通り太皇太后である女性に仕える役職です。
当時の太皇太后は昌子内親王であり、朱雀天皇の皇女で、冷泉天皇の中宮だった方。
冷泉天皇が奇行により早々に退位したこともあり、実子はなく、比較的小ぢんまりとした暮らしだったと思われます。
女性の記録が残りにくい時代ですから、この事件当時、彼女がどうやって暮らしていたか、という詳細な記録はありません。
後述しますが、担当者の横領やその他悪事によって、貴い身分の方への税が滞ることも珍しくない時代です。
美努真遠もその辺が動機だったのではないでしょうか。
ちなみに「掾(じょう)」は各国を納める役人の中で、上から三番目の官職。
トップではないけれども地方のお偉いさんの一人、といった感じです。
長保三年(999年)他人の田んぼを刈り取る
畿内のとある場所で、強盗のお手本みたいな事件が起きました。
・悪漢の一団が他人の田んぼを勝手に刈り取った上、止めようとした人々に怪我をさせた
税の基本は米です。
実質、お金みたいなもので、それだけに稲作を巡ってのトラブルは常態化。
特に当時は田堵(国有農地の管理・耕作の請負人)同士のトラブルが頻発しており、これもその一つだと考えられています。
田堵は農具や種籾を自力で調達できる経済力を持っていました。
しかし、困窮していた他の田堵に襲われたり、上役同士の対立によって敵方の田堵を襲うこともあったとか。
「手元にないから暴力に訴えてでもよそから取ってくる」
「上役に気に入られるためによそから攻撃された」
殺伐とした中世の思考回路って本当に恐ろしいですね。まぁ、現代でもたまにいますが……。
長徳三年(997年)権利書を奪われて
山城国紀伊郡の物部茂興という人物が、借りた米を返済しないまま亡くなってしまいました。
そこで貸主方は茂興の妻・内蔵貴子へ返済を迫ったのですが、強盗まがいの乱暴なやり方だったため事件扱いとなったものです。
取り立て人は、貴子らの家に押し入り、居合わせた貴子の弟で僧侶の覚珍が
「借用書を提示していただけませんか」
と言ったにもかかわらず、家と土地の権利書を強引に取り上げていってしまったといいます。
権利書を再発行する仕組みもありましたが、今回の場合は、取り立て人側に再発行権があったため、にっちもさっちもいかなかったのだとか。
同年5月20日、貴子がこの件を書面で検非違使庁に訴えたため、歴史に残ることになりました。
この件は、権利書を取り上げられてはいるけれど、刃傷沙汰にまでは至ってないので、まだマシな方でしょうか。
お金に関係する中でも“横領”の類になると、かなりタチが悪くなってきます。
長徳四年(996年)110人分の米
播磨掾であり摂津守の郎党を兼ねていた高向国明という人物が、私宅の財産を差し押さえられました。
建物と財産の中身が凄まじいです。
・居住用の家
・土屋(土間の家)110石の米、160籠の炭、8枚の長筵(ながむしろ)
・倉代(床が敷いてある倉庫)6枚の長筵、20枚の紙
目を引くのは、なんといっても「110石の米」でしょう。
1石とは、どれだけの分量なのか?
というと、大人一人が一年で食べる米の量なので、単純計算110人✕1年分の食料となります。
私腹を肥やすどころか腹が弾けるレベルですね。
当時は貨幣が十分な役割を果たしておらず、米や布、紙などで物々交換することもあったため、蓄財と考えれば不思議ではないのですが……。
当時の技術や衛生環境では、これほどの米を貯蔵していても、傷んでしまって価値が下がる可能性も高そうです。
何人がかりで押収したのか。どのように運んだのか。
その辺の詳細な記録は不明ですが、かなりの時間や人手を要したことは間違いないでしょうね。
もう一件、横領にまつわる事件をご紹介しましょう。
といってもこちらは少々毛色が異なり、「疑われたけど無罪だった」という話です。
長徳二年(996年)以降
当時、近江から皇后・藤原遵子への米の貢納が遅れていました。
放っておく訳にはいかないので、皇后宮大夫を兼任していた遵子の弟・藤原公任が近江介・源則忠に使者を遣わし、米を納めるよう求めます。

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用
当時は、朝廷や后妃たちへ納める税をちょろまかして私腹を肥やす者が多々いたため、則忠もそうではないか?と疑われたのです。
しかし則忠は、近江を任せていた郎党に税を持ち逃げされてしまっており、本当に手元不如意になっていました。
にもかかわらず公任の使者は事情を聞かずに則忠の屋敷を荒らしまわり、これを恥辱と感じた則忠は書面で訴えます。
「あのような者たちに無礼を働かれるのは許しがたい」
無実なのに家を荒らされたのですから、そりゃあ上役に文句の一つでも言いたくなるものでしょう。
しかも、源則忠は醍醐源氏の一人です。
本来は臣下筋の藤原氏(の更に下の者)に乱暴されれば、二重三重に腹が立ったであろうことは想像に難くありません。
則忠に落ち度があるとすれば、郎党に裏切られた時点で、報告と検非違使への協力を求めなかったことでしょうか。
「米が遅れて申し訳ありません。奪われた米を取り戻すため、検非違使を遣わしていただけませんか」
といった具合で証拠を残しておけば、どうにかなったのでは……。
★
普段から余っているわけじゃないのでしょう。上級貴族と異なり、庶民や下級役人のトラブルは、やはり食料絡みのものが多いです。
結局、人は不正をしてでも富を得たい、暴力を使ってでも解決したい、と願う生き物なのでしょうか。
1000年経っても変わらない傾向に、ある意味、
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【参考】
繁田 信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』(→amazon)
他





