万治2年(1659年)6月28日は井伊直孝の命日です。
と言っても「誰それ?」と思われるか、あるいは「“真田丸”で痛い目に遭わされた武将だよね」というイメージが浮かんでくるか。
いずれにせよ現代においては、不名誉な評価になりがちなこの直孝。
徳川四天王・井伊直政の息子であり、赤鬼として恐れられた父親と比較されると、その功績は雲泥の差のように思われるかもしれません。
しかし、実際はどうなのか?
これが直孝の事績を振り返ると捨てたもんじゃない……どころか、実は家康から見込まれ、“徳川を守る先鋒”として井伊家の礎を築いたとも言える存在だったりします。
今では「ひこにゃん伝説」に登場するお殿様としても親しまれている。

井伊直孝/wikipediaより引用
井伊直孝の生涯を振り返ってみましょう。
井伊直政の二男として
徳川四天王の一人である井伊直政は、主君である家康の養女・花(唐梅院)を妻としていました。

井伊直政/wikipediaより引用
しかし、井伊直孝はこの妻の子ではありません。
天正18年(1590年)に印具道重の娘(養賢院)を母として生まれ、何らかの事情によりその出生は隠されていたとされます。
幼少期の直孝は、井伊領内の北野寺に預けられ、そこで育ちました。
当時の僧侶は教養に溢れており、学問に接する場としての生育環境は、かなり良いところといえます。
そして数え年で直孝が13才になった慶長7年(1602年)、父の直政が亡くなると異母兄の井伊直継が彦根藩主となり、直孝は徳川秀忠に仕えることとなりました。
秀忠が2代将軍を引き継いだのは、それから3年後の慶長10年(1605年)のこと。
直孝も従五位下掃部助を与えられ、以降、この地位は井伊家に引き継がれてゆきます。
ただし、当時はあくまで分家の立場であり、慶長15年(1608年)に上野白井藩1万石の大名となると、慶長18年(1613年)には伏見城番役に任ぜられるなど、一応は順調な出世を遂げていました。
直政の二男という微妙な立ち位置
さて、ここで改めて考えてみたいのが井伊直孝のポジションです。
彼は井伊直政の二男。
長男である兄は、正室の母から生まれ、すでに彦根藩主となっていました。
もしも、生まれた時代がもっと遅ければ、直孝はそのまま二男としての生涯を終えることになったでしょう。
しかし当時はまだ、江戸幕府が始まったばかりの頃。
西には秀吉の遺児である豊臣秀頼と、その母である淀殿がいます。

淀殿(左)と実子の豊臣秀頼/wikipediaより引用
慶長19年(1614年)まで、あと1年というタイミング――大坂城周辺には、ただならぬ緊張感が漂っていました。
“真田丸”で下手を打ってしまった直孝
慶長19年(1614年)に何が起きたのか?
同年11月、東西両者の交渉はまとまらず、ついに【大坂冬の陣】の火蓋が切って落とされました。
難攻不落の大坂城に籠城する豊臣軍。
対するは、巨大な要塞を取り囲む徳川軍。
この合戦で、赤備えのヒーローといえば真田信繁(幸村)であり、赤鬼の父を持つ井伊直孝ではありません。

絵・富永商太
それどころか直孝は、大坂城から少し離れてポツンと島のように浮かんでいた「真田丸」へ突撃をしかけ、完膚なきまでに撃退される“やられ役”として、後世にまで名が知られるようになってしまいました。
こうなると出鼻をくじかれたとして家康に叱責されそうなものですが、意外や意外、評価は悪くありません。
むしろ「味方を鼓舞した」という理由で家康に庇われ、お咎めもなかった。
このときの家康には、ある頭の痛い問題があったのです。

徳川家康/wikipediaより引用
実は家康は、井伊家の行末を案じていました。
直孝の兄・井伊直継はどうにも頼りなく、御家騒動になりかけるような家臣団の離反が相次いでいたのです。
そのため直継は謹慎処分とされ【大坂の陣】には直孝が出陣。
もしもこの大戦で直孝がカリスマ性を周囲に見せつけることができれば、家康としても井伊家の当主をすげ替えることができます。
ところが“真田丸”で下手を打ってしまった直孝。
翌慶長20年(1615年)の【大坂夏の陣】で失地回復できれば……という場面で本領発揮となりました。
長宗我部盛親を討ち取る手柄
慶長20年(1615年)、【大坂夏の陣】に参戦した井伊直孝は、藤堂高虎と共に先鋒を務めると、【八尾・若江の戦い】で長宗我部盛親を討ち取ります。

長宗我部盛親/wikipediaより引用
さらには淀殿と豊臣秀頼が立て籠もる大坂城に発砲して、最終的に死へと追い詰めたのも、井伊直孝でした。
まさしく父譲りの武勇。
さぞかし家康もホッとしたことでしょう。
この武功により5万石を加増された直孝は、従四位下侍従へと昇進を遂げると、ついに兄弟の運命は逆転します。
・弟の直孝が彦根藩主
・兄の直継改め直勝が上野安中藩主
当初は彦根藩主だった直勝の系統は、越後与板藩に移り続いていくこととなったのです。
井伊家は徳川の先鋒たれ――その命運は【大坂の陣】でも発揮されたと言えるのでしょう。
このころ家康は、国を治める倫理として朱子学を重視するようになりました。
長幼の序を重んじ、本人の資質に問題があろうとなかろうと、まずは兄を優先する。
それは後の3代将軍・徳川家光と、弟の徳川忠長で家督争いが起きたときにも、家康によって生まれの順が重視されました。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
しかし、です。
井伊家の家督については、家康自らが口を出し、長幼の序ではなく資質を重んじて弟に3代目・彦根藩主を継がせたのです。
それほどまでに、井伊家は徳川家を守る家として、研ぎ澄まされた名刀のような資質を求められたのではないでしょうか。
井伊は徳川を守る先鋒たれ
寛永9年(1632年)、秀忠は死にのぞんで、井伊直孝と松平忠明に我が子・徳川家光の将来を託しました。
これが大老職の始まりとされます。
井伊家は30万石の大藩となりました。
彦根藩は立地も抜群でした。
上方にも近く、京大坂に睨みを利かせる位置にあり、東国政権の徳川幕府が西に目を光らせるための絶好の位置に井伊はあったのです。
井伊家は、幕府宿老においても特別な位置を獲得。
将軍名代としての日光東照宮参詣は、井伊家が継ぐものとされました。
隣国・明の滅亡時における対応
外交においても重要な役割を果たしています。
幕政のターニングポイントとされる隣国・明の滅亡時における対応の仕方です。
1644年、李自成の乱と満洲族により明が滅亡すると、亡命政権である南明政権の鄭芝龍・成功父子から援軍を要請されました(【日本乞師】)。
このとき直孝は【文禄・慶長の役】を先例として挙げ、援軍要請を断るよう進言。
将軍・家光はその進言を受け入れ、度重なる援軍要請を断る一方、亡命する明人を受け入れ続けました。
そんな直孝にとって、悩みの種は井伊家の男児らしからぬ井伊直滋(なおしげ)でした。
甘やかされて育てられたせいで、どうにもならない――そして周囲からのプレッシャーに耐えきれなかったのか、万治元年(1658年)、直滋は出家遁世してしまうのです。
結果、翌万治2年(1659年)に末子の井伊直澄が世子とされました。

井伊直澄/wikipediaより引用
そして、その次の当主には直縄の嫡男である井伊直興と定め、万治2年(1659年)6月28日に直孝は死去。
享年73。
家督は直澄が継ぎました。
井伊が滅びるとき 徳川もまた
譜代大名筆頭である井伊家は、5代6度の大老を輩出する別格の家となりました。
そんな井伊家のユニークな名物が牛肉の味噌漬け。
日本で肉食は忌まれていたものの、薬食いと称する滋養強壮としては食べられていました。
その代表格がこの井伊家名物・牛肉の味噌漬けであり、そんな井伊家最後の大老が、幕末の井伊直弼です。
彼は一本気であり、13代将軍・徳川家定の意を受け、剛腕を振るいました。

井伊直弼/wikipediaより引用
この家定を苦しめていたのが、水戸藩の徳川斉昭です。
水戸藩の水戸光圀は、亡命した明人を多く招き入れ、儒教を尊びました。
日本で初めてラーメンを食べたのが水戸光圀とされるのは、そんな背景があったからこそ。
本場の儒教思想を朱舜水から学び、水戸藩にはこんなプライドが築かれてゆきます。
清は夷狄の満洲族だ。
となると、実質的に中華思想を受け継いだのは、亡命した明人を受け入れた日本ではないか?
実はこの思考回路は、朝鮮でも発揮されています。
朝鮮では朱子学を厳守し、倫理と正義があることを誇りとするようになります。
しかし、中国から見たら「どちらも漢族じゃないのに、中華思想を発揮されてもわけがわからん」と困惑する場面。
いずれにせよ、水戸藩はとにかくプライドが高い。
結果、幕政に口出しし、家定の後継者として徳川斉昭最愛の子である慶喜を強引に勧め、黒船来航以来、ただでさえ大変な幕政を大混乱に陥れるのです(【将軍継嗣問題】)。

徳川斉昭/wikipediaより引用
そこで、困惑する家定の意を受け、立ち上がったのが井伊直弼。
直弼は、徳川斉昭を中心とした一橋派を処罰する【安政の大獄】を引き起こしました。
しかし、これに憤った水戸藩士らが井伊直弼を襲撃するという【桜田門外の変】が起きるのですから、幕府としてはたまったもんじゃありません。
井伊直弼の死は、幕府に暗い影を落とします。
井伊家は直孝以来、京都を監視する役目がありましたが、直弼の死により、それどころではない。
そこで京都の治安維持を任せられたのが会津藩でした。
遠隔地であり、財政的に苦しいにも関わらず、頼まれれば火中の栗を拾うであろう藩主・松平容保の生真面目さにつけ込み、押し付けられたのです。
幕末の井伊家は、影の薄い存在になってしまいました。
後味の悪い話として、水戸藩の天狗党が大量処刑された【天狗党の乱】で厳しい処分を肯定し、首切り役を志願したのは井伊家彦根藩士であったとされます。
そしていよいよ【第一次長州征討】のような戦争が始まっても井伊家の評価は低い。
井伊家の威光を振り翳し、赤備えで威張り散らす――時代錯誤と高慢さの象徴として侮蔑と共に語られ、まったく評価されていません。
京都を守ってきた会津藩士は、劣った装備でも懸命に槍を振るい、敵からも賞賛を浴びた。
けれども彦根藩士は何なのか?
そう言われてしまう事態が幕末に起きてしまったのです。
これは皮肉にも「徳川家康の慧眼がいかに優れていたか」を示すものとも言えます。
井伊直弼は将軍のために悪名を被る覚悟を持つ、忠誠心あふれる大老でした。
そして徳川将軍家の守り刀である井伊が折れると、幕府は崩壊へと向かってしまったのです。
井伊直弼の死は、テロによる世直しに日本人が目覚める悪しき契機にもなりました。
守り刀が破損することがいかに国を危うくするか。
井伊家は流れる血によって、そのことを証明したのです。
招き猫伝説と直孝
最後に一つこんなエピソードを。
井伊直孝には、招き猫伝説があります。
あるとき、直孝が鷹狩りの際、弘徳院という寺の前を通りかかりました。
すると猫が招くような仕草をしているではありませんか。
これも何かの縁だろう。
直孝はそう思い寺に立ち寄ると、突然の雷雨に襲われたのでした。
猫のおかげで雨を避けたとして、直孝はこの寺に寄進し井伊家の菩提寺とし、「豪徳寺」と改められました。
かくして井伊家代々の墓は、かつて彦根藩の所領だった世田谷の豪徳寺にあり、これに由来する招き猫が作られました。
彦根のゆるキャラ・ひこにゃんも、この招き猫伝説にちなみます。
あわせて読みたい関連記事
-

井伊直政の生涯|武田の赤備えを継いだ井伊家の跡取り 四天王までの過酷な道のり
続きを見る
-

悪役にされがちな大老・井伊直弼はむしろ一本気で能力も高かった?真の評価とは
続きを見る
-

信繁が大坂冬の陣「真田丸の戦い」でド派手に振る舞う狙い~真田戦術の極意とは?
続きを見る
-

徳川家康の生涯|信長と秀吉の下で歩んだ艱難辛苦の75年を史実で振り返る
続きを見る
【参考文献】
藤野保『徳川家康事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
二木謙一『徳川家康』(→amazon)
藤田達生『戦国日本の軍事革命: 鉄炮が一変させた戦場と統治』(→amazon)
他




