藤原頼通

画像はイメージです(駒競行幸絵巻/wikipediaより引用)

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道長と倫子の次男・藤原教通は野心溢れて兄の頼通とバッチバチに対立!結末は共倒れ?

摂政関白の地位。

それと同時に外戚(天皇の外祖父)ポジションを目指して争う――大河ドラマ『光る君へ』の舞台で中心にいるのはご存知、藤原道長ですが、ある意味、それより興味深いのが息子たちかもしれません。

一般的には、平等院鳳凰堂藤原頼通が跡継ぎとして知られますよね?

しかし実際は、その弟である藤原教通(のりみち)もバッチバチに兄と争っていて、なんだか共倒れするかのように終わってしまうのです。

道長にしてみれば「争うにしても、もう少し家の繁栄が続くようにしてくれよ……」と嘆きたくなる展開と申しましょうか。

今回注目したいのは、ドラマでも、なかなか強気な発言でにわかに存在感を増している、弟の藤原教通。

一体どんな人物だったのか?

1075年11月6日(承保2年9月25日)はその命日。

藤原教通の生涯を振り返ってみましょう。

 


異母兄弟の確執

藤原教通は長徳二年(996年)6月7日に生まれました。

母は道長の嫡妻・源倫子であり、同母姉には藤原彰子や同母兄に藤原頼通、その他多くのきょうだいがいます。

倫子の母・藤原穆子が長命だったためか、倫子・彰子・頼通・教通も当時としては驚異的な長命でした。

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その分確執も生まれましたが、それは後述するとしまして……道長にはもう一人の妻・源明子がいて、彼女との間にも多くの子女が生まれました。

そのため教通は

嫡妻腹だが次男

年の近い異母兄弟が大勢いる
=
幼い頃から競争にさらされる

という環境で育つことになります。

大河ドラマ『光る君へ』でも、いささか強気な描き方をされているのは、こうした状況を反映してのことでしょう。

特に一歳上の異母兄・藤原能信が気の強い暴れん坊タイプだったこともあって、教通とはぶつかる機会も多かったとされます。

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寛弘三年(1006年)12月に元服したとき、能信も元服しており、それぞれの加冠役や叙任された位階に差がつけられていました。

教通の加冠役は右大臣・藤原顕光で、正五位下に叙任。

能信の加冠役は権大納言・藤原道綱で、従五位上に叙任。

本人同士も後に政争を繰り広げることになりますが、この時点で意識しはじめたのでしょう。

道長と道綱も異母兄弟ながら、ドラマでも描かれているようにこの二人は同じ車で祭見物に出かけるなど、良好な関係でした。

道綱が(彼の母からするとおとなしすぎるくらいに)温厚なタイプだったからかもしれません。道長が息子の加冠役を頼んだのも、身分と人柄や今後の関係性を加味してのことだったのでしょう。

そのへんの空気というか、人付き合いの仕方も教通と能信が学べたら良かったのですが……。

 


紫式部日記にも度々登場している

この時期の重大な出来事といえば、やはり姉の彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産したことでしょう。

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前後の様子を描いた『紫式部日記』にも、教通はたびたび登場。

例えば、寛弘五年(1008年)9月11日に彰子が出産した際には、兄・頼通や源雅通とともに魔除けの散米(うちまき)をしています。

また、出産直前で彰子の近辺がごった返している中、几帳の上から女房たちの様子を覗き見ていた人々の中にも、教通が含まれていたようです。

当時はまだ満12歳ですし、普段と違う様子が物珍しかったのでしょうかね。

同じく『紫式部日記』にて、9月16日に幼い教通らが舟遊びをしたことが書かれており、若い女房たちを誘ってともに遊んだと記されています。

女房たちも全員が誘いに乗ったわけではないのですが、舟遊びの様子を見物していた者もいたようです。この場面を書き残した紫式部もそうだったのでしょう。

教通が周囲から可愛がられていそうな雰囲気がうかがえます。

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その後、敦成親王の誕生五十日祝いや賀茂臨時祭の場面にも教通が登場していますが、あまり詳しい描写はありません。

この時点では”道長の子供の一人”という印象です。

 


道長から見ると”良い子”

愚管抄』には”父の道長が教通を「ヨキ子」と思っていた”とあるので、普段はおとなしい少年だったのかもしれません。

道長の『御堂関白記』にも、長男の頼通より次男の教通について書いている日が多く、父からしても性格的に教通のほうを気に入っていたのでしょうか。

跡を継いで人目に立ちやすくなるであろう長男には、あえて厳しく接したともとれそうです。

道長からすると息子にも多く恵まれたことは喜び以外の何物でもなく、寛弘四年(1008年)11月22日に教通は、頼宗・顕信・能信らの兄弟と共に賀茂臨時祭で舞人を務めています。

道長は『御堂関白記』で「(四人も我が家から舞人を出せたのは)稀有なこと」と記述。

上機嫌っぷりがうかがえますね。

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教通は寛弘七年(1010年)に従三位へ上り、寛弘九年(1012年)4月には藤原公任の娘と結婚しました。

順調に貴族の出世コースを歩んでいると言えるでしょう。

結婚の翌々年となる寛弘十一年(1014年)には長女・生子が生まれ、夫婦仲も問題なかったと見てとれます。

実父である道長が頻繁に教通のことを書いているくらいですから、藤原実資の日記『小右記』にも名前が出てくる場面は多々あります。

しかし、教通が何かをした――というよりも、

”◯◯儀式の参列者に教通がいた”

という描写が多いので、際立って目立つ存在ではなかったように思われます。

嫡妻腹とはいえ次男なので、あまり目立たないほうが良いと考えていたのかもしれません。

あるいはよほど身の振り方が上手い乳兄弟か側近がいたか、後述のように従者が目立ちすぎるせいで主人の影が薄くなってしまったのでしょうかね。

本人の言動としては「年長者の言う事には基本的に従順」という傾向が見受けられます。

例えば『小右記』寛仁三年(1019年)6月22日の記述。

道長が教通に内大臣就任を打診したことについて、教通はこう答えています。

「実資殿が先に大臣になるべきです。私はそれと同時に大臣となり、実資殿の教えを請いたいと思います」

教通の兄・藤原頼通も実資を敬う言動を見せていますし、先例に詳しい実資との関係を良好にしておきたいという狙いが見えますね。

あるいは藤原伊周藤原隆家の兄弟のように、”父が関白だから”という理由で奢り、孤立しないよう努めていたのかもしれません。

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教通は“貴族らしく”恋愛も嗜んでいます。

長和五年(1016年)ごろまでの間に和泉式部の娘・小式部内侍と男女の仲となって、一男一女をもうけました。

小式部内侍は彰子に仕えていたので、教通が姉のもとに出入りしているうちに親しくなったのでしょうか。

二人の間には恋人らしいちょっとした嫉妬エピソードもあり、少なくとも一時期においてはなかなか熱烈な仲だったようです。

年齢も近く、当時20代前半くらいだったので、いかにも若者の恋愛という感じがあります。

治安元年(1021年)7月には内大臣という重い立場にもなり、家を直接継げないということ以外は順風満帆でした。

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