慶応二年(1866年)4月25日、松前崇広(たかひろ)という大名が亡くなりました。
名前の通り松前藩(現・北海道松前郡)のお殿様で、外様大名でありながら老中に就任したほどの人物です。
しかし、その尖すぎる国際感覚からアッサリ失脚してしまった大名でもあります。
ド派手な幕末の中でヒッソリと消えてしまいがちな松前崇広。
彼の生涯に注目してみましょう。
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家康「身内と譜代以外は全員ヨソ者」
松前藩が老中になることの何がスゴイのか?
というと、これまでの慣例では、完全に就任できない職でした。
家康が「身内と譜代以外は全員ヨソ者」という方針を掲げたので、江戸幕府では決まった家(基本的に家康の直接の部下だった譜代のみ)の人しか出世コースに乗れなかったのです。
今だったら何かと問題になるシステムですね。
当時は、どんなに頭が良くてもエラくなれないこともあれば、どこからどう見てもアホな人が”イイ家に生まれたおかげで”出世するということもありました。
老中というとトップクラスの役職です。
江戸幕府の職制については、以下の記事をご参照いただくとして、
大老・老中・若年寄の違いをご存知ですか? 細分化された江戸幕府の役職
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そうした慣例が根強い中で、なぜ崇広が老中になれたのかというと、タイミングも良かったんですね。
西洋に詳しい人間を幕閣に入れよう
時はまさに幕末。
そのクライマックスとも言える大政奉還&戊辰戦争の直前でした。
なぜ大政奉還が実施されても戊辰戦争が始まったのか~激突する西郷と慶喜の思惑
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戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
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欧米列強にどう対処すべきか――幕府の中でも意見が割れていたその頃。
「とりあえず、西洋に詳しい人間を幕閣に入れよう!」という方針が掲げられ、その一人として松前崇広が選ばれたのです。
松前崇広は、松前家の六男です。
本来であれば藩主の座に就く可能性すら難しい、とても低い立場の人物でした。
偶然、跡目を継ぐ人がまだ子供だったので、中継ぎ的な立場で松前藩主になっていたのです。
しかし彼は、腐ることなく幼少期から武芸や学問に打ち込み、その中で西洋の文物や機械についても学んでおりました。
「芸が身を助けた」好例と言えるかもしれません。
あるいは、なかなか藩主になれないながら、何かと技術革新を推奨していた島津斉彬なんかも彷彿とさせます。
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