足利直義

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

室町幕府樹立の功労者・足利直義の生涯~最期は兄・尊氏と衝突してからの不審死

正平7年(1352年)2月26日は足利直義(ただよし)の命日です。

足利尊氏の弟であり、知名度こそ高いとは言えないながら、実は室町幕府の設立に多大な功績を残した人物。

尊氏が最も頼りにした身内でもありましたが、彼らの政権は次第に綻びが生じるようになり、兄弟は【観応の擾乱】という争いに突入してしまいます。

そして直義の最期は「毒殺だったのでは?」という噂が現代にまで残ってしまうような、哀しく後味の悪いものとなってしまいました。

なぜ足利直義はかような運命を辿ることになったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

 


初登場は人質の話

足利直義は徳治元年(1306年)、足利高氏(後の足利尊氏)の弟として生まれました。

幼少期に目立った逸話はありません。

同母でかつ年も近いことから、兄・高氏との仲は良好だったものと思われます。

ただし、高氏と直義の母である上杉清子は、父である足利貞氏の正室ではありません。

二人には、正室の産んだの長兄・足利高義がいて、仮に高義が長命であれば、高氏も直義も歴史の流れに埋もれていた可能性もあるでしょう。

しかし高義が若くして亡くなり、やがて高氏に足利氏の家督が回ってきたことにより、彼らの運命は大きく変わります。

なんせ足利氏は源氏の名門でした。

以下のように源義家の息子・源義国から始まっており

北条氏から正室を迎えてきたため、鎌倉幕府にとっては重鎮となる家柄でした。

しかし直義は職についていたわけでもなく、若い頃どうしていたのかもよくわかっていません。

後年の動向を考えると、勉学に励んでいたのでしょうか。

『太平記』では、

・尊氏が上方への出陣をしつこく命じられて鎌倉幕府に嫌気が差したところで人質を求められてさらにウンザリし、直義に相談する

というシーンが直義の初登場。

このとき直義は、幕府の要求通りに尊氏の妻子たちを人質に出し、その護衛として郎党を数人ずつつけることを進言しています。

これが容れられたことにより、千寿王(後の二代将軍・足利義詮)は鎌倉脱出に成功し、倒幕の旗頭として一時新田氏に庇護されることになりました。

足利義詮/wikipediaより引用

ちなみに尊氏には、千寿王よりも年長の庶子が二人いました。

庶長子である竹若丸は上洛の失敗で落命し、次子の新熊野殿(後の足利直冬)については何も手配されていなかったようで……幸か不幸か、尊氏や足利家の人々に認識されておらず、難を逃れたようです。

 


鎌倉の実効支配者として

やがて足利直義は、高氏と共に倒幕軍を討つべく出陣、六波羅探題攻略に参戦しました。

鎌倉幕府が倒れた後は、その功労者として後醍醐天皇から高く評価。

武家憧れの官職・左馬頭や、相模など14ヶ所の地頭を与えられています。

さらには倒幕した元弘三年(1333年)12月、後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に向かい、関東の支配を任されました。

当時の成良親王は年齢ひとケタの幼児ですので、実質的に「直義が関東を采配せよ」と言われたも同然です。

宮中でもよくある

「神聖性の象徴として幼い皇族を据え、実務はそれなりに身分と血筋がある者が担当する」

という構図が鎌倉にも作られたのでした。

直義は倒幕の際に荒れてしまった鎌倉を復興させ、領民の慰撫にも努めました。

その甲斐あって鎌倉市中は徐々に落ち着きを取り戻し始め、今度は逃げ延びている北条一門の残党狩りも重要な任務となってきます。

結果、勃発したのが建武二年(1335年)の【中先代の乱】でした。

最後の北条氏得宗である北条高時――その遺児である北条時行を担ぎ上げ、諏訪氏が蜂起したのです。

時行軍は道中で関東各地の北条方を味方につけ、一丸となって南下。

これを迎え撃つべく直義は配下を差し向けたものの、いずれも敗走し、直義自身も鎌倉から退かざるを得なくなります。

そしてこのとき、成良親王を保護して上方へ送り届けると同時に、その異母兄である護良親王を暗殺させました。

護良親王/wikipediaより引用

 


護良親王を始末

護良親王は足利尊氏を警戒し、後醍醐天皇にそのことを訴えていました。

しかし、逆に尊氏から讒言され、足利直義の監視下に置かれていました。

ここで鎌倉を占拠した北条方に万が一護良親王を奪われ祀り上げられてしまうと、足利方の鎌倉周辺における攻防が非常に不利をこうむる。

それを防ぐため、直義が淵辺義博に命じて護良親王を始末させたのです。

護良親王を殺害する淵辺義博(歌川国芳画)/wikipediaより引用

つまり成良親王にとっては、異母兄を殺した相手に庇護されるという複雑な状況でもありますね。

そのころ上方にいた尊氏は、直義救援のため、征夷大将軍の座と北条時行軍の討伐命令を後醍醐天皇に願い出ていました。

しかし後醍醐天皇から「征夷大将軍にして東へ向かわせたら、勝手に新たな幕府を作って好き放題するかもしれない」と警戒され、討伐命令すらもなかなか出ません。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

焦れた尊氏は独断で東下。

後醍醐天皇が慌てて後から征東大将軍の地位を与えて追認するという形になっています。

そして直義は兄と合流し、間もなく鎌倉を奪還しました。

尊氏は、鎌倉に留まって配下に恩賞を配り、直義も上方には戻りません。

それを不審に思った後醍醐天皇は、足利軍に謀反の疑いを抱き、新田義貞に討伐へ向かわせます。

後醍醐天皇に逆らうつもりはなかった尊氏は、後醍醐天皇からのお咎めがきた時点で上洛することも考えました。

しかし直義が兄に進言します。

「そんなことをしたら殺されてしまいます!今は鎌倉にとどまり、足元を固めましょう」

そうして関東で新田軍を迎え撃つ事になるのですが、直義はこの時点で後醍醐天皇と決別し、東国で幕府を作ろうと考えていたのかもしれません。

弟が着々と戦支度を進める横で、やっぱり官軍に弓を引きたくない尊氏は浄光明寺にこもって出家したものの、義貞はそんな事は気にしてくれません。

やむなく足利家の重臣・高師泰(師直の弟)や直義が新田軍を迎え撃ちましたが、彼らは押される一方。

高師泰(歌川貞秀画)/wikipediaより引用

「直義が危ない」と聞かされて、ようやく尊氏が自ら出馬しました。

そこからは足利軍が勝利したとされていますが、なんだかちょっと話が出来すぎているような気もしますね。

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