大河ドラマ『べらぼう』で里見浩太朗さん演じる須原屋市兵衛。
書物問屋の重鎮らしく様々な経験や知識を有しており、主人公の蔦屋重三郎を何かと助言してくれますが、第41回放送で蔦重と同様に「身上半減」という罰を喰らってしまいました。
なぜ、あんな好人物が?と思われた方も多かったでしょう。
市兵衛は、平賀源内の『物類品隲』や杉田玄白の『解体新書』の発行を手掛けるなど、江戸の出版業を先導していた有識者です。
吉原での遊びなどを描いた作品が規制の対象になるのはまだわかるとしても、なぜ真面目に本を出していた須原屋が?
史実における須原屋市兵衛の生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
江戸を席巻する「須原屋」から暖簾分けをされる
大河ドラマ『べらぼう』の劇中で「本屋になりたい」とこぼす蔦屋重三郎に、

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
須原屋市兵衛が自身の経験を語る場面がありました。
【暖簾分け】です。
奉公人が主人の許可を得て同業店舗を別のところに出店することを言い、主人と似た号や意匠を用いることができるため、客の側でもそれと判別できる仕組みになっています。
いわゆるブランドですね。
現代でもそうした営業形態があるのは皆さんご存知でしょう。
「あの名店で修行を積んだ店長」などと紹介されることがあり、江戸時代にはこの形式が盛んに行われていました。
須原屋市兵衛は、江戸時代前半に【書物問屋】を構えた初代・須原屋茂兵衛のもとに奉公し、暖簾分けされたのです。

『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』/国立国会図書館蔵
この須原屋こそ、江戸の書物問屋の祖ともいえる存在であり、上方に負けぬよう出版業を盛り上げていこう、という志のもとに店舗が経営されていました。
ゆえに市兵衛だけでなく、複数の弟子たちが暖簾分けをしてもらっていて、彼らが江戸の出版業興隆に努めています。
ただし、主人から暖簾分けをしてもらうには才知と人格を認められなければならず、『べらぼう』に登場している須原屋市兵衛が優れた人柄であるのも腑に落ちるところでしょう。
須原屋茂兵衛は蔦重のライバルでもある
須原屋市兵衛が元いた須原屋の茂兵衛は、上方ありきだった江戸の書物問屋を盛り立てた最初期の人物となります。
江戸の出版業はこう言われておりました。
「吉原は重三、茂兵衛は丸の内」
つまり、並び称されたライバルということです
実はこの須原屋茂兵衛の売れ筋である定番商品も『べらぼう』前半で出てきています。
【武鑑】です。

『安永三年 大名武鑑』須原屋茂兵衛安永3年(1774年)刊/wikipediaより引用
大名の家紋や格式、装備の特徴をカタログにしたものであり、江戸っ子たちは「日光社参」の行列を見ながらこの書物をめくり、あれはどこそこの誰だ!と確かめ楽しんでいました。
【参勤交代】の制度が生み出した定番のベストセラーですね。
定期刊行され、確実に売れるほどの人気もあり、その点では、吉原のガイドブックで蔦重が得意とする【吉原細見】に近い書物と言える。
『べらぼう』では、蔦重から「本屋になりたい」と相談を受けた須原屋市兵衛が暖簾分けと【株】について熱く語っていました。
須原屋茂兵衛の【武鑑】は、【株】の買取により出版権を獲得したもので、前述の通り市兵衛は暖簾分けをされています。
蔦重は後に【地本】だけで経営が苦しくなると、書物問屋で扱う書籍の【株】を獲得し、

『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』/国立国会図書館蔵
困難な局面を乗り切ったのでした。
確信的な学術書で知識を世の中を広める
そんな売れ筋から暖簾分けされた須原屋市兵衛は、『べらぼう』だけでなく、他のフィクション作品においてもしばしば登場しています。
例えば2018年の正月時代劇『風雲児たち』では、遠藤憲一さんが演じていました。
杉田玄白の『解体新書』はじめ、歴史を動かしたベストセラー出版を支えた重要人物であり、

杉田玄白/wikipediaより引用
しかも須原屋市兵衛は手堅い売れ筋を扱うだけでなく、世を変える志ある書物を推進したものです。
8代将軍・徳川吉宗以降に拓かれた蘭学への造詣も深く、平賀源内や杉田玄白といった蘭学者とも親しくしていました。
江戸の出版はネットワークが重要です。
才能ある人々が顔を合わせ、協力し、進めていかねばどうにもならない。そして叶うならば出版したい。
須原屋市兵衛ならば世に出すという確信が持てればこそ、著者も執筆活動に励むことができたのです。
須原屋市兵衛の刊行は、宝暦12年(1762年)建部綾足『寒葉斎画譜』からスタート。
翌宝暦13年(1763年)には、平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)の版元となっています。

国立科学博物館に展示されている『物類品隲』/wikipediaより引用
『べらぼう』劇中にも登場したこの本は、本草学者で源内開催の薬品会におけるカタログともいえる書籍であり、様々な植物や薬物が掲載されたものでした。
こうして源内との繋がりが生まれていったのでしょう。

平賀源内/wikipediaより引用
源内の発明した“燃えない布”(現在のアスベスト)を解説した 『火浣布略説』。
福内鬼外の筆名による浄瑠璃『神霊矢口渡』も、須原屋市兵衛が刊行しました。実に長い付き合いといえます。
杉田玄白ら気鋭の蘭学者が集い手がけた『解体新書』も、須原屋市兵衛が刊行すると決まっていたからこそできたものです。
ちなみにこの『解体新書』翻訳チームには平賀源内は入っておりません。
移り気な性格ゆえに地道な作業には向いていないと須原屋市兵衛が判断し、あえて外したのかもしれませんね。
なお『解体新書』が刊行されたのは安永3年(1774年)であり、『べらぼう』が始まる明和9年(1772年)の2年後にあたります。
そんな縁があったからこそ、劇中の須原屋に杉田玄白が出入りし、市兵衛が源内を心配しているというシーンもあったんですね。
※続きは【次のページへ】をclick!
