一般的にあまり知られていない、ご当地マイナー武将をご紹介させていただいる本連載。
今回ピックアップするのは、埼玉県長瀞町&寄居町の「藤田信吉(のぶよし)」さんで、元和2年(1616年)7月14日が命日となります。
初めて耳にする方も多いかもしれませんが、実は、歴史を大きく動かした男とも言えるこの武将。
まずは当連載おなじみ『信長の野望 革新』からデータチェック!
信長の野望 革新/amazonより引用
武田家臣。主家滅亡後は上杉家に仕え、佐渡攻略などに活躍した。関ヶ原合戦の直前に上杉家を出奔、上杉・徳川家間の調停工作を行うが失敗し、剃髪した
統率61
武勇59
知略65
政治48
能力値が微妙!
実に微妙過ぎる!
城代としてなら任せられるけども、部隊を率いて合戦するにも心許ない……。
ところが、この地味〜な能力値に反し、藤田信吉さんの経歴はド派手だったりします。
早速、藤田信吉さん、波乱の生涯に迫っていきましょう。
藤田信吉 長瀞町にある天神山城の生まれ
藤田信吉さんの生誕地は、埼玉県長瀞町。
1559年(永禄2年)の生まれと言われています。
私ごとですが、母方の故郷でもある馴染みの深い町です。
とは言っても、藤田信吉さんのことを知ったのは『信長の野望 革新』を始めた20歳頃でした。
さらにお恥ずかしいことに、出身地が長瀞町だったことを知ったのも、わずか5年前のこと。
お隣、寄居町の鉢形城を中心に開催される『寄居北條祭り』のトークイベントに出演させていただいた時でした。
このとき寄居町の正龍寺に参拝する機会があったのですが、そこに「藤田康邦」というお方の夫婦のお墓がありました。
私は思いました。
『藤田? 藤田信吉と関係あるのかな?』
調べてみると、藤田康邦は藤田信吉さんのお父さんという話ではあーりませんか。
そして、藤田信吉を初めてちゃんと調べてみて、長瀞町にある天神山城の生まれとされていることを知ったのです!
先日、初登城してきましたが、なかなかにしんどかった!
現在はボロボロの模擬天守が、廃墟マニアには堪らないスポットとなっているようです。
「武蔵七党」と呼ばれた名門藤田家
さて、藤田信吉さんは『信長の野望』の説明文を見ると「武田家」だったり「上杉家」に仕えています。
なぜ埼玉県西部の長瀞町出身、藤田信吉さんが両家に仕えることとなったのか?
それは、大河ドラマ『真田丸』の真田家同様、国衆たちの生き残り戦略が関係していました。
藤田信吉さんの実家・藤田家は「武蔵七党」(武蔵が本拠地の強い武士団ベスト7)の1つに数えられる名門です。
ご先祖様には「野狂(やきょう)」と称された平安時代初期の異端公家「小野篁」がいるとされ、平安時代後期から約400年――現在の長瀞町や寄居町に勢力を張っていた藤田家。
戦国時代初期には山内上杉家に従っていると、小田原城を本拠地とする北条氏康が攻め込んできました。

北条氏康/wikipediaより引用
【本能寺の変】後の真田家のように、藤田家はどの勢力に味方しようかと苦悩します。
そして、選んだ道が北条家への従属でした。
当時の藤田家当主は、藤田信吉さんの父である藤田康邦。
藤田康邦は、北条氏康の四男・北条氏邦を養子として、娘の大福(おふく)御前を嫁がせ、藤田家を譲りました。
毛利元就による吉川家や小早川家の乗っ取りと似たように、北条家は武力を背景に、武蔵の名門・藤田家を乗っ取ったのです。
北条氏邦は間も無くして、本拠地を天神山城から鉢形城に移しています。
この後、父の藤田康邦は名字を「用土」(ようど)と改めて、用土城に隠居。
当初は「重利」という名だったものの、北条氏康の「康」と北条氏邦の「邦」を取って「康邦」と改めたそうです。
その後、天文24年(1555年)に藤田康邦は死去しました。
藤田信吉さんの生まれはその4年後とされていますので、藤田康邦の甥や孫ではないか?とも言われています。
用土家を継いだ兄が北条に毒殺された!
用土の家は、兄の用土重連が継ぎます。
が、優秀ゆえに北条氏邦から危険視され、天正6年(1578年)、氏邦の密命でなんと毒殺をされています。
乗っ取った側と、乗っ取られて従属した側の二人には確執があったといいます。
ちなみに、毒殺された場所は沼田城(群馬県沼田市)でした。
越後(新潟県)上杉家の支配下だったものの、上杉謙信亡き後の家督争い【御館の乱】の混乱に乗じて、

上杉謙信/wikipediaより引用
北条家(この時の当主は北条氏康の跡を継いだ北条氏政)が制圧したのです。
用土重連は、城代に指名されていました。
兄を毒殺された藤田信吉さんは用土家の家督を継いでご当主となり、兄に替わって引き続き北条氏邦に仕えます。
「おい! 藤田信吉さん! 兄の仇を討たないのか!」
と、読者の皆さんは、そうお思いでしょう。
ご安心ください。
「赤穂浪士の討ち入り」然り、仇討ちには準備が必要です。
藤田信吉さんの準備が整ったのは2年後の天正8年(1580年)のこと。
この年、甲斐(山梨県)の武田勝頼が、本格的な沼田城攻略に取り掛かりました。担当したのは、あの真田昌幸です。

真田昌幸/wikipediaより引用
真田昌幸の得意技といえば調略――さっそく藤田信吉さんを武田家へ誘い込みます。
「今こそ、北条家を見限る時ぞ!」
とばかりに、この誘いに乗って沼田城を真田昌幸に渡し、武田勝頼の家臣となったのです。
冒頭でご紹介した『信長の野望』の解説文が「武田家臣」と始まるのは、このためです。
沼田城を譲った藤田信吉さんは沼須城(沼田市)に移ったといいます。
この前後、藤田信吉さんは姓を「用土」から、先祖代々継承してきた「藤田」と改めました。
ちなみに、官職名を「能登守(のとのかみ)」と名乗ったため「藤田能登守」と称されることも多いです。
この後も藤田信吉さんの武将ライフは波乱万丈です。
織田四天王に敗れ、今度は上杉へ
武田勝頼によって沼田城を安堵されていた藤田信吉さん。
しかし、頼りの武田家は天正10年(1582年)、織田家による【甲州征伐】で滅亡。
上野(群馬県)には“織田四天王”の一人・滝川一益が派遣され、これに従属します。

滝川一益/wikipediaより引用
ところが、同年6月2日に【本能寺の変】が勃発して、上野の勢力図もゴチャゴチャになるのです。
織田信長の生前は織田家に従っていた北条氏直(北条氏政の跡を継いで当主)も、態度を一転して、滝川一益を攻撃。
【神流川の戦い】で滝川軍を撃破します。
この混乱に乗じて藤田信吉さんも、滝川一益に勝負を仕掛けて敗戦。
上野を追われてしまい、越後に落ち延びることとなります。
そして、春日山城を本拠地とする上杉景勝(上杉謙信の養子)の家臣となったのです。
個人的には、すでに十分すぎるほど面白いのですが、まだまだ波乱は続きますよ!
先鋒として出向いた先には兄の仇・氏邦が
ここで今さらの基本情報ですが……藤田信吉さんも殺された兄同様にデキる男です。
天正15年(1587年)に鎮圧された【新発田重家の乱】では、複数のお城を攻略するなど大大大活躍。
新発田重家の居城である「新発田城」は、以下【溝口秀勝】の回でもピックアップしておりますので、そちらもご参照くださいませ。
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溝口秀勝の生涯|信長・秀吉・家康に重宝された尾張の戦国武将
続きを見る
この戦い以外だと、例えば【佐渡平定】などでも武功を挙げ、新参者ながら直江兼続らがいる上杉家お重臣ラインナップに名を連ねることとなりました。
天正18年(1590年)の【小田原征伐】では、なんと上杉家の先陣として関東に攻め込みます。
豊臣秀吉が小田原城の北条家を滅ぼし天下統一を達成したこの大合戦で、藤田信吉さんにある運命のイタズラが襲い掛かります。
上野の諸城を攻略した上杉軍は武蔵に侵攻。
武蔵にある北条一族が城主を務める重要なお城を攻撃することとなったのですが……。
そのお城こそ、兄の仇である北条氏邦と、その正室の姉・大福御前が籠る鉢形城でした。もう! 運命のバカっ!
信吉さんはそこでどうしたか?
荒川の断崖上に築かれた鉢形城は1ヶ月ほど籠城戦を繰り広げるも、援軍が見込めないこともあり北条氏邦は降伏をして開城。
正龍寺で剃髪した北条氏邦には、斬首や切腹など厳しい処置が取られると思われたものの、敵将の一人である前田利家に預けられ、命は取られることはありませんでした。

前田利家/wikipediaより引用
この寛大な処置の背景に藤田信吉さんがいました。
遺恨は荒川の水に流したのか。
それとも姉に危害が及ぶのを避けるためか。
藤田信吉さんは北条氏邦夫婦の助命に奔走し、それを成し遂げたのです。その真意や如何に!?
ちなみに北条氏邦は、前田家の領地に移って金沢(石川県金沢市)で死去。
荼毘に付された後、遺骸は正龍寺に運ばれました。
姉の大福御前は鉢形に残り、散り散りになった夫や家臣や領民たちのことを想ってお祈りを続け、1,000日のお祈りが終わった日に自害したと言われています。
この正龍寺の東南には「大福御前自刃の地」が伝えられています。
大福御前のお墓もまた正龍寺にあり、生き別れとなった夫の北条氏邦と隣り合わせに建てられています。
上杉家から追い出された裏切り者だと!?
さてさて、私も書き疲れてきましたが、藤田信吉さんの話はまだ終わりませんよ(笑)。
慶長3年(1598年)のこと。
上杉景勝は秀吉の命令で会津若松城へ移ることとなり、藤田信吉さんもこれに従って、越後から会津の入り口に位置する津川城(新潟県阿賀町)の城主となります。
藤田信吉さんが戦国史に大きく登場するのは、この2年後、慶長5年(1600年)のことです。
年賀の挨拶をするため上杉景勝の代理として上洛した藤田信吉さん。
いや、新参だったのに、いつの間にか主君の代理に!スゴ過ぎ!
上洛した藤田信吉さんは、秀吉死後、政権の主導権を握っていた徳川家康と会見をします。
このとき徳川家康と主君の上杉景勝は、実はピリピリムード!
近隣の大名である堀秀治や最上義光などから「上杉景勝に謀反の気配が…?」という旨の報告が挙げられていたためです。
藤田信吉は、主君・上杉景勝と、アンチ家康の参謀・直江兼続に、家康と友好関係を築くことを勧め、両者の間を取り持とうとしました。
しかし上杉主従はこれを却下。
ついには藤田信吉が裏切り者のレッテルを貼られて、上杉家から追放されてしまうのです。
会津から命からがら逃げ出した藤田信吉さんは江戸城の徳川秀忠に保護してもらった後、京都の大徳寺(境内の総見院には織田信長のお墓がある)で剃髪、謹慎をしました。

徳川秀忠/wikipediaより引用
そしてその後の情勢はご存知の通り。
徳川家康による【会津征伐(上杉征伐)】が勃発すると、その最中に石田三成らが挙兵。
家康率いる東軍は兵を取って返し、三成ら西軍との【関ヶ原の戦い】で勝利を収めるわけです。
家康との関係 アヤシイっちゃアヤシイ
藤田信吉さんからすると、没落した自分を取り立ててくれた上杉家を守るつもりでした。
しかし、上杉家からしてみれば、敵方に通じて讒言をした裏切り者でもあります。
そのため藤田信吉さんは【会津征伐(上杉征伐)】ひいては【関ヶ原の戦い】のキッカケを作った人物とも言われています。
藤田信吉さんにとっては不名誉ながら、自分の母方の故郷出身武将が歴史を動かしたのかもしれん!と考えると、非常に興奮してしまいます。
疑惑の真相は不明ですが、関ヶ原の戦いの後のこと、藤田信吉さんは家康から下野の西方(栃木県栃木市)に1万5千石もの領地を与えられ、なんと大名に取り立てられています。
うーーーーん、家康との関係、アヤシイっちゃアヤシイですね……(笑)。
この一件が原因なのか。
『信長の野望 革新』にある義理の数値(高ければ高いほど裏切らない・MAX100)は「19」という低値となっています。
ちなみに、還俗して「重信」と改めた藤田信吉さんは、西方城の支城である二条城に館を構えて、西方藩の初代藩主に就任しています。
っていうか、二条城って栃木県にもあるんですね〜。
実は、二条城というお城は香川県にもあったりします。
また、京都の二条城も、家康が建てたもの以前に信長・秀吉が建てた二条城(二条にあった城館)が計5ヶ所あったりしました。
そのあたりの詳細は拙著『ヘンテコ城めぐり』(→amazon)をお読みくださいませ! さーせん、宣伝です(笑)!
「北条→武田→上杉→徳川」を渡り歩く
さて、藤田信吉さんの波乱の武将人生は、ついに終結を迎えます。
慶長19年(1614年)から翌年にかけて起きた【大坂の陣】に参戦。
榊原康勝(“徳川四天王”の榊原康政の三男・大坂夏の陣で破裂した痔が悪化して死亡したとも)の軍監を務めたものの、何かしらの“しくじり”があったということで、徳川家康から突然の改易を命じられてしまいます。
そして、失意のままに迎えた元和2年(1616年)、奈良井宿(長野県塩尻市)の長泉寺で急死しました。
死因は不明ですが、苦悩の末に自害をしたとも言われています。
以上、武蔵の国衆の家に生まれ、戦乱を生き抜くため「北条→武田→上杉→徳川」を渡り歩き、天下分け目の関ヶ原の戦い遠因となったともされる“流転の武将”、藤田信吉さん58年の激動の武将人生でした。
お墓は、最期の地である長泉寺と、西方の実相寺に建立されています。
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◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link)
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