徳川頼宣/wikipediaより引用

徳川家

なぜ家康の十男・徳川頼宣は「謀反疑惑」を笑って一蹴できたのか?

寛文十一年(1671年)1月10日は徳川頼宣の命日です。

徳川家康の十男であり、同時に、八代将軍・徳川吉宗の祖父でもある――そんな説明で始めたら、さすがに頭が混乱しますよね。

しかし、これが事実でして。

生まれが関ヶ原の戦い直後で、その後、紀伊藩の藩祖となり70才まで生きたのですから、江戸時代の平和に一役買ったと言ってもよいでしょう。

特に、若い頃には謀反疑惑をかけられても、非常に剛毅な対応で一蹴するなど、家康の息子の中でも目を引くエピソードの持ち主であります。

徳川頼宣の肖像画

徳川頼宣/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

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幼き大大名

徳川頼宣は慶長七年(1602年)3月7日、徳川家康の十男として伏見城で生まれました。

母は側室・お万の方(養珠院)。

お万の方(養珠院)像

お万の方(養珠院)像/
phogo by sarugajyo

お万の方は十一男・徳川頼房の母でもありますので「水戸藩」と「紀伊藩」の母となりますね。

ちなみに、御三家のもう一つ「尾張藩」の徳川義直は九男で、母はお亀の方。

家康には同名の側室・於万の方もいますが、こちらは結城秀康の母となりますね。

いずれにせよ御三家の藩祖たちが生まれた頃の家康は、できるだけ多くの要所を身内に任せたいと考えていたのでしょう。

なんせこの時期はまだ大坂に豊臣家は健在。

再び戦乱の世へ戻してしまうなんて愚だけは絶対に避けねばならない。

子沢山であった家康でも、完全に安心しきれたわけではないでしょう。というのも慶長八年(1603年)に五男の武田信吉が亡くなってしまうのです。

結果、空いてしまった水戸20万石をまだ2歳の徳川頼宣を公認とするほど。

水戸は、関東から見て東北の入口ともいえる場所ですから、東北諸大名への警戒を緩めないため息子に守らせるのが適任と考えたのでしょう。

すぐ上の兄・徳川義直も似たようなものですが、頼宣のほうが加増のスピードが早く、慶長十四年(1610年)には駿河・遠江・東三河で合計50万石に転封されています。

他の大名で50万石というと、熊本藩や福岡藩くらい大藩ですから、御三家の藩祖たちに与えられた石高がいかに桁外れな規模だったかわかります。

 


老父の教え

徳川家康も、彼らをただ単に甘やかすだけではありません。

手元に置き続けたのは、自ら教育するためだったという見方もあります。

その一つに「頼宣が落馬して水に落ちても、家康は助けず放置した」なんて話も。

織田信長も若き頃は水泳と乗馬に励んだ――という記録が残されておりますが、徳川家康も水泳に関しては非常に熱心でした。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikipediaより引用

69歳のときに川で泳いでいたという記録までありますから、かなりのものです。

その理由がいかにも戦国時代らしいものです。

「合戦はいつも勝てるとは限らない。大将だって、負けたときは戦場から逃げ、泳いで川を渡ることもある。そのとき水泳ができなかったらどうする?家臣に助けてはもらえるとは限らないんだぞ?」

さすが【桶狭間の戦い】や【三方ヶ原の戦い】、そして本能寺の変で決死の逃避行をしただけありますね。

あるいは、陶隆房(晴賢)など「船を用意できず自害に追い込まれた」武将の例を意識したのかもしれません。

幼い息子たちに習得させるのも頷けます。

 

「14歳は二度と来ない」

生まれが遅かった徳川頼宣の初陣は、大坂冬の陣でした。

このときも家康の思い入れっぷりは凄まじく、初めて鎧をつける儀式【鎧初め】を自らの手で行っています。

同じく初陣だった徳川義直についてはそういう話が伝わっていないので、やはり頼宣を贔屓していたのではないでしょうか。

徳川義直の肖像画

徳川義直/wikipediaより引用

頼宣(と義直)は冬の陣で無事に初陣を果たし、半年後、大坂夏の陣で二度目の戦に臨みました。

このとき頼宣は「先陣はぜひ私に!」と名乗り出たのですが、まさか家康の息子(しかも現代なら中学生)を最前線に出すわけにもいかず、希望は聞き入れられません。

頼宣はよほど悔しかったのか、涙を流して訴えていたそうです。

そのあまりの剣幕に重臣が

「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありますよ」

となだめると、頼宣はこう答えながら、ますます機嫌を悪くしたとか。

「私の14歳が2回あるわけではなかろう!」

なかなか詩人なセリフですね。

対する家康のコメントがまた絶妙でして……。

「頼宣の言うことはもっともだ! 今の発言こそ手柄である!」

普段の甘やかしっぷりに加えてこれですから、もうツッコミようもありません。

 

紀州の主

徳川頼宣といえば、やはり紀州藩の初代として知られています。

封じられたのは家康の死後、元和五年(1619年)7月のこと。

当時の石高は55万5000石ですから、立派な大大名です。

和歌山城の天守閣と御橋廊

しかし紀州は、かつて雑賀衆や根来寺などが存在したクセの強い土地であり、まだまだ若い頼宣が治めていくにあたって困難が予測されました。

そこで頼宣は、入国前に家臣を派遣し、前例や現況、治安などを調べさせたといいます。

いざ入国後は、すぐに牢屋を作って犯罪者を取り締まると共に、法律を整えたり街の整備を進めたり、藩主としての務めを果たしていきます。

当時の犯罪者は、関ヶ原後に再就職できなかった浪人も多く、彼らを召し抱えることで治安の向上も図りました。

同時に産業奨励にも力を注いでいきます。

 


みかんと梅が支える紀州

現在、愛媛県と並んでみかんの生産地として知られる和歌山県。

キッカケは徳川頼宣だったと伝わります。

戦国時代から紀州で栽培されていたところ、頼宣が「うまい!!」と大絶賛、税を免除してまで生産を支援したとされています。

「自分の好物を世に広めようとした」と考えると、ちょっと可愛いですね。

ちなみに柑橘類は基本的に「温暖で日照時間が多く、水はけが良い地域」でよく育つので、紀州藩はバッチリ適合した土地でした。

みかん同様、紀州名物として知られる梅も同様、こちらは頼宣の家老につけられた安藤直次が奨励したといわれています。

安藤直次の肖像画

安藤直次/wikipediaより引用

さらに余談ですが、みかんや梅が好む環境は、米の生産地とはほぼ真逆。

日照時間が長い方が良いのは同じですが、米は高温多湿な環境を好み、スムーズに水を行き渡らせなければならないため広大な平野が必要となります。

一方、山がちな紀州では「米をたくさん作れるようにするより、梅やみかんなどの果樹を育てたほうが効率が良い」ということになりますね。

頼宣や直次がそこまで知っていたかどうかはわかりません。

ともかく結果として、梅やみかんは紀州藩の財政を支えることになります。

こうして少しずつ藩主としても成長し始めた頼宣。

寛永三年(1626年)8月には従二位大納言という高位高官に任じられ、順風満帆に見えました。

しかし、戦国の気風が思わぬところから吹いてきます。

 

黒幕と噂されて「めでたい」!?

時は流れて慶安四年(1651年)、徳川頼宣にとっては甥の三代将軍・徳川家光が亡くなった後の話です。

将軍位そのものは無事四代・徳川家綱に受け継がれましたが、このとき家綱はまだ11歳。

自分で政務を行うことはできません。

この間隙を突いて、浪人たちが「幕府ひっくり返そうぜ!」と良からぬことを企てまました。

【由井正雪の乱】です。

由井正雪の肖像画

由井正雪/wikipediaより引用

計画があまりに杜撰だったこの事件は、事前に企みが漏洩し、大事には至りませんでしたが、よりによって首謀者らは「頼宣からとされる手紙」を持っていました。

こうなっては、いかに御三家の者といえども、疑われざるを得ません。

しかし頼宣は、結果的に何のお咎めも受けていません。

幕府に対する釈明の仕方がまたカッコいいのです。

「これはめでたい! 他の大名ならいざ知らず、私の名前で謀反を起こしたことにするとは、幕府が安泰な証である」

いささかわかりにくいかもしれませんので、少々補足するとこうなりましょう。

「もしも外様大名の名前があれば本当に関与していた可能性が高いが、将軍の身内である私が謀反を起こすわけはないのだから、幕府は安泰だ」

パッと見わかりづらいこの弁明は幕閣にあっさり受け入れられたようです。

とはいえ頼宣はそれから約10年間、目をつけられて国許へは帰れませんでした。

 


正室の棺に付き添って和歌山まで帰国

由井正雪の乱の疑いが晴れた後には心温まる話もあります。

寛文六年(1666年)1月24日、正室の八十姫(瑤林院)が江戸屋敷で亡くなったときのこと。

徳川頼宣は棺に付き添いながら、和歌山まで帰ったのです。

夫婦仲が良かったとされる大名は他にもいますが、ここまでした人はおそらく頼宣ぐらいでは?

なお、八十姫の父は、あの加藤清正です。

加藤清正の肖像画

加藤清正/wikipediaより引用

その息子である加藤忠広の代で改易されていたため、彼女は実家を失っていました。

頼宣がそんな彼女に対し、一方的に同情していたわけでもなく、姫のほうも寛文4年(1664年)に頼宣の今生と来世の幸せを願って仏像を奉納しています。

まさに相思相愛だったのでしょう。

八十姫が亡くなった翌年、寛文七年(1667年)には病気のためとして息子の徳川光貞に家督を譲っていますので、正室に先立たれたことが心身に堪えたのかもしれません。

頼宣が亡くなったのはそれから4年後、寛文十一年(1671年)1月10日のことでした。

戒名は南竜院殿前二品亜相顗永天晃大居士――後年の書物などで頼宣を「南竜(龍)院」と呼ぶのはここからきています。

生まれはいささか遅かったけれど、情も濃く覇気に富んだ頼宣。

まさに”遅れてきた戦国武将”と呼ぶに相応しい人物でした。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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