大河ドラマ『豊臣兄弟』の第4回放送で描かれた桶狭間の戦い。
秀吉と秀長の動向よりも目立ったのは、今川義元の首を取った毛利新介(良勝)であろう。
首級を高々と掲げて「義元の首、取ったりー!」と叫ぶ姿は凛々しいものがあり、翌日の首実検でも母衣衆に取り立てられ五百貫文の加増とされた。
ただし、すべてドラマの中の話であり、史実ではどうだったのか?
その後も織田家で活躍できたのか?

歌川豊宣『尾州桶狭間合戦』/wikipediaより引用
毛利新介の生涯を振り返ってみよう。
最初の記録が桶狭間
毛利新介の生まれは不明。
織田信長の馬廻衆(親衛隊)として取り立てられるが、その時期は不明で、最初の記録がいきなり桶狭間の戦いとなる。
『信長公記』に「最初は服部小平太(春安)が打ちかかり、逆に膝口を斬られて倒れると、その後、新介が首を取った」と記されているものだ。
むろん二人だけで突撃していったわけではない。
桶狭間での織田軍は、中島砦を出て今川軍の真正面に激突、最初に遭遇した部隊を倒すとその先に義元の本陣があり、都合五度の押し引きがありながら、最終的に押し切ったと『信長公記』では記されている。
よく知られる「迂回奇襲説」ではなく、「正面突破説」と呼ばれるもので、最近では定説となりつつある。

といっても、大軍を相手にどうやって勝てたのか疑問は残るであろうから、よろしければ本記事末に「図解でわかる桶狭間の戦い」のリンクを掲載しておいたので、そちらをご参照いただきたい。
さて、首を取った毛利新介はどんな褒美を得たのか?
ドラマの中ではその後「母衣衆」に選ばれ、「五百貫文の加増」とされたが、同書にそこまでの記述はない。
ただし、この時期に「黒母衣衆」に選ばれたのは間違いなく、それがどんな役職であったか、見てみよう。
黒母衣衆で活躍
毛利新介が所属した「黒母衣衆」は織田信長の馬廻衆(親衛隊)の中でも、特に優秀とされた者たちで構成された部隊だ。
背中に大きな「母衣」を背負ったのが特徴の騎馬武者であり、信長の身近において戦闘だけでなく伝令もこなす。
母衣のイメージは以下の絵図をご参照いただきたい。

母衣のイメージ(室町時代以降は布を広げるための骨組みも作られた)/wikipediaより引用
目立った姿で戦場を駆け回るため敵から狙われやすく、それゆえ背中に弓矢が当たらぬよう母衣は防御の役割も担っていたとされる。
織田家には、黒母衣衆と同様に赤母衣衆もあり、佐々成政(黒)や前田利家(赤)も所属。
両者共に、北陸の戦国大名となることで知られるが、残念ながら毛利新介はそこまでの出世は遂げていない。
かといって信長の信頼がないわけではなく、むしろ側近として置かれたようだ。
では実際にどんな活躍が見られるか。
母衣衆の詳細は別記事「黒母衣衆と赤母衣衆」に譲り、毛利新介の話を進めよう。
大川内城の攻撃
永禄十二年(1569年)8月20日、織田軍は美濃や尾張の西南にある伊勢へ進軍。
同国を支配する北畠具教・具房の討伐へ向かった。
北畠の本拠地・大河内城は、岐阜城から約130kmの距離である(※現代の道路で)。
織田信長は近隣の小城を無視して、8月28日に大河内城を囲むと、城の周囲に二重・三重の柵を設置して、兵糧攻めのため徹底監視。
このときに毛利新介の名が見える。
前田利家や原田直政、あるいは中川重政や河尻秀隆など、名だたる武将らと共に監視業務を担っており、桶狭間から約10年が経過していても一定の信頼を得ていることがうかがえる。
残念ながら、この戦いで毛利新介の活躍は特記されていない。
しかし、稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀らが攻撃したときには、馬廻衆の討死が報告されており、毛利新介も共に戦っていた可能性は想像できる。
最終的に、滝川一益らの活躍もあって、同年10月に織田軍は勝利。
信長の次男である織田信雄(※信勝は信長の弟)が北畠家の家督を継ぐということで決着した。
信長の側近官僚として
次に記録が見えるのは天正七年(1579年)のこと。
4月12日付けで大和薬師寺に対して出した書状、さらには同年6月24日付けで明智光秀に出した書状が残されている。

薬師寺
最初の書状は、薬師寺に「禁制の札」を発行し、対価としてお金が支払われたことに対する謝礼だった。
禁制とは、近隣で合戦が起きたときに「乱暴狼藉を働かないいことを約束した取り決め」であり、戦国時代の寺社や村は常々お金を払って、各軍から攻撃されない安全保障を買っていた。
勝手に合戦を始めたのは戦国大名や国衆たちであり、寺社や村にとっては理不尽な話である。
しかし、仮に禁制が無かった場合、足軽雑兵等によって物だけでなく人まで強奪される危険性があったから、結局は支払わざるを得ない状況だった。
6月に光秀に出された書状は、同じく薬師寺に関するもので、明智軍による陣取りの禁止を求めたもの。
禁制と同様に、戦乱から避けるための処置だろう。
こうした活躍はもはや信長の側近官僚と言えるが、最期の最期で戦国武将らしい死を迎えることになる。
甲州征伐から本能寺の変へ
天正十年(1582年)2月1日、信濃の木曽義昌が武田を見限り、織田に内通。
そのわずか2日後の2月3日、織田信忠軍に属する森長可と団忠正が信濃へ向けて出陣すると、同月12日には信忠も岐阜城から出陣、いわゆる「甲州征伐(甲州攻め)」が始まった。
戦いは一方的に終わった。
もちろん織田軍の勝利であり、わずか1ヶ月後の同年3月11日、武田勝頼は妻子らと共に自害へ追い込まれる。
このとき毛利新介は?
同年4月1日、諏訪にいるときに興福寺大乗院から贈品を送られたことが記録されている。
信長の側近として著名な堀秀政や長谷川秀一らと共に贈られていて、毛利新介も同様に側近として重んじられていたことがうかがえる。
しかし、それから2ヶ月後に亡くなるとは、彼ら全員が思っていたに違いない。
天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変である。
このとき毛利新介は織田信長のお供はしていない。
ならばなぜ亡くなったのか?というと織田信忠と共に二条御所にいて、明智軍の襲撃を受けたからだ。

織田信忠/wikipediaより引用
そこでも特段、活躍は描かれておらず、毛利新介といえば、やはり義元の首を取った大殊勲に注目となろう。
なぜ織田軍が勝てたのか?という疑問は、別記事「図解でわかる桶狭間の戦い」で解いていただければ幸いである。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
藤本正行『【信長の戦い1】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(2008年12月 洋泉社)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
【TOP画像】『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)
