大河ドラマ『豊臣兄弟』で描かれた三方ヶ原の戦い。
武田信玄が遠江へ攻め込み、徳川家康が生涯最大ともされる大敗を喫した合戦として知られるが、そもそも信玄はなぜ家康を攻撃したのか?
実は、当時の織田家は、徳川家と「清州同盟」を結んでいただけではなく、武田家との間にもいわゆる「甲尾同盟」が成立していた。
つまり、信玄・信長・家康は
武田―織田―徳川
という微妙な関係に置かれていたのである。

絵・富永商太
それでも信玄は、なぜ徳川領へ攻め込んだのか。
駿河侵攻から西上作戦、三方ヶ原の戦いに至るまでの流れを整理してみよう。
武田と徳川は駿河侵攻で一時協力していた
武田家はもともと北条家、今川家と「甲相駿三国同盟」を結び、強固な関係を築いていた。
しかし、永禄三年(1560年)「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、跡を継いだ今川氏真の代で今川家は没落。
弱体化する同盟相手を見限った武田信玄は、三国同盟を破棄して今川領である駿河国への侵攻を画策した。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
このとき信玄が協力を求めたのが、他ならぬ徳川家康である。
今川家から独立して三河を平定しつつあった家康に対し、信玄は今川領の分割案を提示した。
武田家が駿河、徳川家が遠江をそれぞれ攻略するという合意があったとされ、一説には大井川を境界とする取り決めだったとも言われる。
そしてその計画は永禄十一年(1568年)に実行された。
同年12月13日、甲府を出陣した信玄は駿河へ侵攻すると、前もって調略の限りを尽くしていたせいか、またたく間に今川家は総崩れとなり、今川氏真は掛川城(静岡県掛川市)へと追いやられた。
武田軍に呼応した徳川軍も遠江への侵攻を始め、当初、武田家と徳川家では互いの利害が一致しているはずだった。
しかし、その協力関係はあっという間に終焉を迎える。
信玄に不信感を募らせる家康
駿河を制圧した武田軍が、遠江の一部にまで軍勢を進めたのである。
事前の取り決めとは違うじゃないか!
徳川家康は武田軍の行動を約束破りの行為とみなし、武田信玄に対して不信感を募らせ、しかもそれだけで終わらなかった。
翌永禄十二年(1569年)5月、徳川が今川氏真と和睦を結んだのである。

徳川家康/wikimedia commons
家康は、掛川城に籠っていた氏真を保護すると、駿河侵攻で武田家と敵対関係に陥っていた北条氏康とも誼を通じて、対信玄への対決姿勢を鮮明にしたのだ。
それが本気だったのは、信玄の宿敵である越後の上杉謙信と連絡を取り始めたことから理解できるだろう。
家康は、信玄の背後を突くべく謙信との同盟を模索したのだ。
そして元亀元年(1570年)10月頃、徳川と上杉の間で同盟関係が成立したとされ、徳川家康は武田信玄にとって明確な「討つべき敵」となったのだった。
結果、非常に複雑な立場に立たされたのが、家康だけでなく信玄とも同盟を結んでいた織田信長である。
武田と徳川に挟まれた信長の苦悩
前述の通り、織田家は徳川家と清州同盟を結んでいる。
信長が畿内平定に兵力を割くことができるのは、背後にいる徳川軍が東方での安全を確保していたから。
一方で信長は、東美濃で国境を接する武田家とも友好関係を維持するため、常日頃から国交に気を遣っており、永禄八年(1565年)11月に信玄の嫡男・武田勝頼に養女を嫁がせるなどして姻戚関係を結んでいた。
つまり信長は、激しく対立する武田と徳川と同盟関係にあるという、外交的板挟みに陥ったのである。

織田信長/wikimedia commons
信玄にしてみれば徳川は裏切り者であり、家康にしてみれば武田は信用ならない相手。
すでに両国では国境を接して緊張状態が極限に達しており、今さら和睦とはならない状況である。
信玄は信長に対し、家康の敵対行為を制止するよう求めていた。
しかし、浅井長政や朝倉義景だけでなく石山本願寺などの信長包囲網に苦しんでいた織田家にとって、東の重要な防御壁である家康を見捨てることなどできない。
もはや信玄の要求を飲むことは不可能――それでも信玄にしてみれば、家康を制止しない信長は盟約違反に等しかった。
西上作戦の開始
元亀三年(1572年)10月3日、ついに武田信玄は動く。
甲府を出陣し、遠江・三河方面への西上作戦を開始したのだ。
信玄は書状の中で、信長・家康に対する「三カ年の鬱憤」を晴らす趣旨を述べている。
家康が上杉謙信と元亀元年(1570年)に同盟を結んでから、約三年間にわたり、家康の行動を放置し続けた信長に対する怒りである。
甲府を出発した武田軍は、主に3つの方面部隊に分かれて徳川領・織田領へと侵攻した。
秋山虎繁(信友)らの別働隊は東美濃方面へ、山県昌景らは三河方面へ進出。
信玄率いる本隊は遠江へ侵攻し、やがて二俣城を攻略して浜松城に迫っていく。

山県昌景/wikipediaより引用
事前に相当な調略活動を行っていたのだろう。
12月19日には遠江の要衝である二俣城まで陥落させると、当初家康は浜松城に籠城して、信長からの援軍である佐久間信盛、平手汎秀らと共に武田軍を迎え撃つ構えを見せた。
しかし、信玄は浜松城を直接は攻めず、城を無視するように北側の三方ヶ原台地へと軍を進める。
狙いは一体なんなのか。
三方ヶ原で武田軍の隙を突こうとしたが
浜松城を素通りするような武田軍の動きを目の当たりにした徳川家康。
自領を堂々と素通りされそうになり、「一体どうすればよいのか……」と焦りの感情が湧いてきただろう。
一矢も報いることなく信玄を無傷でやり過ごしたとあれば、武家としての尊厳が問われるだけでなく、武田軍が織田軍と衝突したときに立つ瀬がなくなる。
もしも織田軍が武田軍に敗れれば、徳川軍の責任が問われるだけなく、自身の存続すら危ぶまれてくる。
生きた心地がしなかったはずだ。
そして、ついに家康は打って出た。
家臣の制止を振り切り、武田軍の背後を突こうとしたのである。
出陣の理由について、江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』などでは「武士の意地として居城を素通りされるわけにはいかなかった」といった説明が見られる。
しかし近年では、武田軍が台地を下るときにできる隙、行軍が乱れる瞬間を家康は狙っていたのではないか?と考えられている。
そして信玄は……徳川軍を待ち構えていたのだった。

絵・富永商太
台地を下ると見せかけて全軍を反転させ、陣形を整えていたのである。
こうして元亀三年(1572年)12月22日夕刻、三方ヶ原において武田軍と徳川織田連合軍が激突すると、兵力で劣り、事前の準備も不十分だった徳川軍は総崩れとなった。
織田軍の平手汎秀をはじめ多くの将兵が討ち死。
家康自身も僅かな供回りと共に、命からがら浜松城へ逃げ込むのが精一杯の大敗となった。
武田信玄の目的は何だったのか
武田信玄の西上作戦は、かつて上洛とも言われていた。
浅井、朝倉、本願寺、足利義昭などの勢力で織田軍を包囲する「第二次信長包囲網」が敷かれており、実際に義昭からの要請もあった。
しかし近年では、上洛を直接の目的と見る説には慎重な見方も強い。
そこには、駿河侵攻の領土分割を巡って衝突した徳川家康との明確な対立があった。
そして、それを調停しようとしない織田信長に対する深い不満も存在していた。
家康にしてみれば、最初に約束を違えたのは信玄にほかならないが、上杉謙信と同盟を結んだことは武田家の尻尾を踏んでしまう行為に等しかったのであろう。

上杉謙信/wikimedia commons
信玄が書状にまで記していた徳川への怨み「三カ年の鬱憤」は一朝一夕に晴らされるものではなかった。
ゆえに、徳川を見捨てず援軍を送った信長との同盟も破棄されたに等しく、信玄が病没していなければ、三河から尾張・美濃方面へ圧力を強めた可能性も十分にあっただろう。
つまり三方ヶ原の戦いとは、数年にわたって蓄積された敵対感情が臨界点に達した、必然的な結果だったのではなかろうか。
なお、西上作戦で攻めきれずに帰国した信玄については別記事「武田信玄の最期」をご覧いただきたい。
参考文献
平山優『新説 家康と三方原合戦:生涯唯一の大敗を読み解く』(2022年10月 NHK出版)
平山優『武田信玄』(2006年5月 吉川弘文館)
平山優『図説 武田信玄』(2021年4月 戎光祥出版)
鴨川達夫『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(2007年2月 岩波書店)
柴辻俊六『武田信玄合戦録』(2006年10月 角川学芸出版)
柴裕之 編『戦国武将列伝6 東海編』(2023年12月 戎光祥出版)
鈴木将典『武田氏の戦争と内政』(2019年9月 星海社)