大河ドラマ『豊臣兄弟』第21回放送のラストで、衝撃の殺戮シーンが描かれました。
羽柴秀吉が上月城(こうづきじょう)で、女子供を磔・串刺しで処刑したというものです。
秀吉といえば「人たらし」として知られ、ドラマの中でもいつもニコニコ、笑顔を浮かべているのが定番ですが、その一方で非常に冷酷で残酷な一面も指摘されたりします。
一体どちらの秀吉が本性なのか。
上月城で描かれたシーンは史実通りのことなのか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
当時を振り返ってみましょう。
上月城は毛利と織田がぶつかる境目だった
豊臣秀吉は天正五年(1577年)、主君・織田信長より中国地方の攻略を命じられました。
そのためにまずは播磨へ入り、小寺氏や黒田官兵衛などの協力を獲得。
あっという間に播磨の大部分を制し、次に向かったのが上月城でした。
上月城は、播磨国の西端(現在の兵庫県佐用町)にある山城であり、
美作・備前方面へ抜ける要衝に建っていて、毛利攻めを進める秀吉にとって重要拠点の一つです。
織田につくか、毛利につくか。
近隣の国衆たちは両勢力の力関係を見極めていた時期でもあり、万が一にも無様な姿は見せられません。
逆に、ここで派手な勝利を得ておけば、後の攻略もラクになる――ということで、戦場での殺戮が加熱する下地は整っていました。
上月城を守る赤松政範
上月城を守っていたのは、毛利方の赤松政範です。
赤松氏は播磨で随一の有力武家であり、著名な人物としては「嘉吉の乱」で六代将軍・足利義教を殺害した赤松満祐が一族におりますね。
決して脆弱な相手ではなく、政範も簡単には屈しません。
しかし3万ともされる羽柴軍が相手ですから……ついに力尽きてしまった政範は、妻や子供を刺殺し、自らも命を絶つと、配下の者たちには羽柴軍への投降を進めたとされます。
戦国時代の将としては理想的な在り方でしょう。
しかし、です。
秀吉はそれを認めません。
上月城を落とし、周辺エリアを織田領にすれば、民も兵士も自軍のものになるのに、なぜ投降を許さないのか?
いったい何がしたいのか?
答えは、天正五年(1577年)12月5日付、羽柴秀吉から下村玄蕃允という人物に宛てた書状にあります。
秀吉書状に残る「子供は串刺し 女は磔」
秀吉の書状――いわゆる『下村文書』には、上月城の処置として次のような内容が記されていました。
城内の男女を生け捕りにし、首二百余りを刎ねた。
子供は串刺しに、女は磔にして殺した。
まさしく大河ドラマ『豊臣兄弟』のシーンを彷彿とさせますね。

子供や女性の殺された数は曖昧ですが、凄惨な殺害が行われたことは間違いなく、秀吉の神経を疑いたくなるのもわかります。
しかし、ことはそう単純でもなく……ポイントは処刑場所でしょう。
備前・美作・播磨の境目にあり、その先は羽柴軍と対峙する毛利と宇喜多の勢力圏内。
磔や串刺しの光景を見せつけることにより、「織田に逆らえばこうなる」という恐怖を周辺の国衆に植え付けたのでしょう。
秀吉の逆鱗に触れたとかそういう感情的な理由ではなく、軍事的・政治的な効果を狙ってのこと。
そもそも書状の送付先である下村玄蕃允は、織田信長の取次役(使番など)だったと考えられます。
要は信長方への報告書であり、少なくとも秀吉がこの処置を隠すつもりではなかったことはうかがえます。
事前に信長から何らかの指示があった可能性も、完全には否定できません。
『信長公記』にも処刑の記述が
上月城の落城については、秀吉の書状だけでなく、『信長公記』にも記述があります。
上月城勢力の残党を探し出し、備前と美作の境目で磔にした
そんな趣旨で記されていて、女子供を磔や串刺しにしたとは記されていません。
史料によって記述が違うことは注意が必要ですが、少なくとも秀吉側がそのような処置を行ったと報告したのは確かです。
秀吉はその後、上月城に尼子勝久や山中鹿介らを入れました。

山中鹿介(山中幸盛)/Wikipediaより引用
鹿介は、ご存知の方も多いかもしれません。
尼子家の再興のため「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉を残したことで知られますね。
彼らの悲願はいったん成就するかのように思われました。
しかし翌天正六年(1578年)2月、播磨を巡る事態は急変します。
三木城の別所長治が突如裏切って毛利方につき、秀吉らの羽柴軍は播磨内で窮地に立たされてしまったのです。
しかも、別所長治に呼応するかのようにして、毛利軍が数万もの大軍で上月城を囲みます。
慌てた秀吉も救援のため上月城の近くまで駆けつけますが、毛利の大軍を相手においそれと手が出せない状況。
「一体どうすればよいのか!」
膠着したまま動けなくなり、ついに秀吉はいったん戦場を離れて安土へ向かい、織田信長から直々の指示を仰ぐこととしました。
これまで勝手な判断をして散々信長に怒られてきた秀吉でしたが、今度ばかりはマズい状況だという意識はあったのでしょう。
尼子勝久と山中鹿介を見捨てる気はなかったのかもしれない。
しかし、信長の指示は、つれないものでした。
結局上月城は見捨てることになる
「上月城は捨て置き、三木城の攻略に専念せよ」
信長の判断は、ある意味、妥当なものでした。
すでに数万の毛利軍に囲まれている上月城を無理に救おうとして大敗でも喫したら、それこそ今後の中国攻略がうまくいかなくなる。
それよりも三木城を完全に落として播磨を支配し、軍備軍勢が整ったところで毛利と戦った方が、勝率も高くなるでしょう。
上月城の尼子勝久と山中鹿介は、結局、見捨てられました。
尼子勝久は自害。
山中鹿介も捕らえられ、後に殺害されます。
★
上月城は、秀吉による凄惨な見せしめの場であると同時に、尼子再興の夢が潰えた場所でもあります。
そしてこの後の秀吉は、三木城で「三木の干し殺し」、鳥取城では「鳥取の飢え殺し」として知られる、凄まじい包囲戦を展開。

三木城の別所長治/wikipediaより引用
冷酷なイメージが強調される場面が続くわけですが、実際問題、織田軍にとっては兵の損耗が非常に少なく、しかも織田信長が容認している状況です。
秀吉の残虐性がより露骨になるのは天下人になってから。
この頃はまだ作戦の一環として進めていただけのように見えます。
なお、三木城と鳥取城の惨劇については以下の関連記事をご覧ください。
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
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参考文献
- 日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年7月 吉川弘文館)
- 金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年4月 河出書房新社)
- 天野忠幸編『戦国武将列伝7 畿内編【上】』(2022年12月 戎光祥出版)
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)

