大河ドラマ『豊臣兄弟』で織田を裏切った荒木村重。
羽柴秀吉の中国攻略において重要ポジションにいた摂津の有力武将でしたが、突如、有岡城に籠もって信長に反旗を翻します。
しかもその末路は、妻子や家臣を置き去りにして逃げてしまう――。
そんな負のイメージが大きい荒木村重は本当に卑怯者だったのか。
織田と毛利の間に挟まれ、追い詰められた末の決断だったのか。

荒木村重/wikimedia commons
謀反を起こした荒木村重の実像を追ってみましょう。
信長に重用された摂津の有力者
荒木村重は、世襲の大名ではありません。
摂津の有力国衆・池田氏の家臣から身を起こした、叩き上げの武将。
伊丹氏・池田氏・茨木氏・高槻の和田氏など、有力国衆がひしめく土地で村重は実力で勝ち上がり、やがて主家の池田氏すらしのぐ存在になります。
転機となったのが、織田信長と将軍・足利義昭の対立でした。

足利義昭(左)と織田信長の肖像画/wikimedia commons
元亀四年(1573年)に両者が決裂すると、村重はいち早く信長への味方を表明。
この働きが認められ、池田家中の一武将から摂津を束ねる織田方の有力者へ、一気に駆け上がったのです。
家柄ではなく、武力と政治力でのし上がった男とでも言いましょうか。
信長が村重を重く用いたのは、その実力を買ってのことです。
つまり村重は、信長の畿内支配を支える重要な立場であり、その謀反が織田家に衝撃を与えたのも当然のことと言えました。
有岡城の重要性
荒木村重の居城は、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)です。
もとは伊丹氏の城でしたが村重が奪い、大規模に改修して有岡城と改めます。
城下町全体を堀と土塁で囲い込む「惣構(そうがまえ)」を備えた、当時としては先進的な城郭で、籠城を強く意識した造りでもありました。
立地も重要です。
有岡城は京と西国を結ぶルート上の要衝にありました。
当時の情勢を考えると、その重みがご理解いただけるでしょう。
信長は石山本願寺と長年戦っており、海上から本願寺を支援する毛利氏は非常に厄介な存在でした。
しかも秀吉に中国攻略を進めさせていた。
摂津は、織田・本願寺・毛利がせめぎ合う最前線となり、その要を握っていたのが村重だったのです。
彼の動向ひとつで、畿内にまで影響を及ぼす――それだけの位置にいました。
なぜ村重は信長に背いたのか
天正六年(1578年)、村重は突如として信長に背きます。
信長は「荒木摂津守謀叛」と受け止め、当時の記録にも驚きをもって記されています。
織田家中では恵まれた位置にいたはずなのに、なぜ背いたのか?
実は当時から諸説あり、史料から理由を特定するのは困難です。
しかし、村重の立場を整理すると、彼一人の気まぐれでないことは見えてくる。
まず注目すべきは摂津国衆です。
村重の下には独立性の強い国衆がいて、彼らをまとめ続けるのは容易ではありません。多数派の意向は無視できないということです。
もうひとつが石山本願寺と毛利でした。

織田軍と石山本願寺が11年にわたって激突した『石山合戦図』/wikipediaより引用
本願寺は村重の勢力圏のすぐそばにあり、背後には毛利輝元。
いずれも織田家に対抗しうる大きな勢力です。
さらに見落とせないのが、織田政権内部の摩擦でした。
それまで播磨方面にも関与していた村重にとって、秀吉が中国攻略の主導権を握っていく状況は面白くなかったでしょう。
官兵衛を捕らえ 退路を断った村重
そんな状況で迎えた天正六年(1578年)2月、播磨に激震が走ります。
別所長治が織田から離反し、三木城に籠もったのです。

別所長治/wikipediaより引用
村重にとっても由々しき事態でした。
毛利や本願寺と隣り合う厄介な状況でさらに追い込まれたわけで、織田方としては最も危険な最前線に立たされたわけです。
当然、国衆からの要望も届きます。
ここまで来ると、どちらに転んでも大きな痛手は避けられない。
結果、村重は織田に見切りをつけるのでした。
「裏切り」の一言で片づけると、村重が一方的に信長を裏切ったように聞こえますが、実態は複数の勢力に囲まれた末の決断。
下手をすれば中国攻略どころではなくなってしまう――そんな苦境に陥った織田方は、荒木村重の裏切りを翻意させるため使者を送りました。
大河ドラマでは明智光秀も派遣されていましたが、史実上、よく知られるのが旧知の黒田官兵衛が向かった件です。
しかし村重は、官兵衛の説得にも耳を貸さず、それどころか有岡城に幽閉。
話し合いの余地となる使者を捕らえるということは、もはや降伏や和睦の道はない、と断言するようなもの。
つまり村重は、官兵衛を捕らえることで自ら道を塞いでしまったのです。

黒田官兵衛/wikimedia commons
「妻子を捨てて逃げた」は本当か
三木城の謀反に対する織田方の対応は冷静でした。
播磨の西端にある上月城の尼子勝久と山中幸盛らを見捨て、羽柴軍が三木城に照準を定めたことは大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれましたね。
このため織田を裏切った別所長治らは動きを封じられ、「三木の干し殺し」と呼ばれる包囲戦が始まります。
毛利の救援は届かず、飢えに苦しむ三木城。
同時に村重も、追い込まれていきます。
有岡城が惣構の堅城であることは前述の通りですが、城が籠城できるのは外部からの救援があるからこそであり、それが望めない籠城はジリ貧に追い込まれていきます。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)
そこで村重の悪評を決定づけたのが、有岡城からの脱出でした。
わずかな伴だけを連れ、尼崎へ逃れたとされる話が現代まで続いています。
しかも、最終的には毛利方を頼って落ち延び、残された有岡城は落城し、そこで捕らえられた人々は厳しい処刑に遭いました。
この事実だけを取り出せば、村重が「妻子のいる有岡城を捨てて逃げた卑怯者」とされるのも無理はありません。
しかし、です。
当時の史料によると、必ずしも悪評通りとも言えない。
村重が城を出たのは、あくまで毛利の援軍を引き出すためだったという指摘もあるのです。
毛利に援軍を求めに行った?
実際、村重は尼崎へ移ったのち、毛利方に援軍を要請しています。
そもそも尼崎や花隈の城は毛利との連携を意識した拠点でした。
脱出時の様子も、よく知られる話とは違います。
一般的には「夜陰に紛れて数名でこそこそ逃げた」というイメージですが、これはあくまで信長を称える『信長公記』における描写。
村重自身の書状などによると、数百規模の兵を伴い尼崎へ移った可能性も浮かんできます。
コソコソ逃げたのではなく、一定の戦力を率いて有岡城を出て、毛利の援軍を引き出す狙いだった――そう読める余地があるのです。

毛利輝元/wikipediaより引用
むろん、村重が城を出たことで、有岡城の人々が取り残されたのは事実。
結果、残された家族や家臣らが悲惨な目に遭ったことはあまりに痛ましいことでした。
しかし「最初から見捨てて逃げた」のと、「援軍を呼ぼうとして果たせなかった」のでは、まるで様子が異なる。
どうにも『信長公記』の描写が影響して、卑怯者という厳しい評価が先行しすぎている可能性があります。
卑怯者評価の是非
江戸時代に入ると、荒木村重は信長と対比される「豪胆な人物」として描かれたりもしました。
一方で「妻子を見捨てた裏切り者」という負の一面は根強く語り継がれます。
村重が信長を裏切り、城から落ち延びたのは事実。
しかし、臆病者とか卑怯者とは言い切れない。
そもそも摂津の国衆から身を起こし、信長に重用された実力者です。
それが織田・本願寺・毛利・秀吉の中で難しい選択を迫られ、結果、謀反は失敗に終わり、厳しい評価がつけられるようになりました。
村重の問題は、残された者たちに責任を負わせる形になってしまったことでしょう。
しかし、それは最初から意図して起きたものではない可能性が否めず、「卑怯者」の一言で終わらせてしまうのはあまりに酷です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される今、あらためて荒木村重の評価を見直すときなのかもしれません。
なお、ドラマでも話題になった官兵衛嫡男・松寿丸については、以下の別記事に詳細がございます。
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松寿丸に信長が殺害命令|半兵衛が匿うことを秀吉は知っていた?
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参考文献
- 天野忠幸『荒木村重』(2017年5月 戎光祥出版)
- 太田牛一 著/中川太古 訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
- 池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
- 天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』(2016年1月 戎光祥出版)
- 神田千里『顕如 仏法再興の志を励まれ候べく候』(2020年5月 ミネルヴァ書房)

