大河ドラマ『豊臣兄弟』第26回の注目は、何と言っても織田信澄でしょう。
明智光秀が起こすことになる本能寺の変。
それを背後で画策しているようなことが今回信澄から光秀に明かされ、しかも次週予告でも信澄に「時は今じゃ」とまで言わせている。
こりゃもう「信澄黒幕説・本能寺の変」で決まり!
ということで今回は、果たしてそんなことが史実的にあり得るのか?という観点から第26回のレビューを進めて参りましょう。

まずは、あらすじを確認しておきますので、「信澄黒幕説」の考察だけご覧になりたい方は、目次の「信長殺害の動機は否定できず」から該当項目へ飛んでください。
第26回あらすじ
阿波・三好康長の訴えにより、長宗我部元親の四国切り取りを急遽取りやめることにした織田信長。
当然、元親は納得がいきません。
それでも信長は、息子の織田信孝に四国討伐軍の編成を命じるなどして、武力を行使してでも四国を奪い返す姿勢を明確にします。
一方、鳥取の戦場から戻ってきた秀吉は、弟の秀長と共に安土城へ出向き、信長のご機嫌を伺いますが、「さっさと戦場へ戻れ!」とにべもなく追い返されてしまいます。
その信長は「織田信澄が長宗我部元親と内通をしているんではないか?」と疑っていたようでして。
信澄本人を詰問しながら、間に入った光秀までも蹴り飛ばし、最終的に信澄へ蟄居を命じます。
もはや誰も信じられない。
そんな人相の悪い信長を慰めるため、秀吉が画策したのが羽柴一家総出の大宴会でした。
ツマランそうな表情のまま、トンチンカンな宴会で酒を飲む信長。
最終的には飲み勝負で秀吉が勝ち、織田信澄は許されることになりますが……そんな国家の一大事を酒で決めてええんかーい!
と思ったら、直後に織田信澄と明智光秀の、何やら深刻なシーン。
そこで信澄が光秀を脅すのです。
足利義昭名義で光秀に渡された「信長を討て」という書状は、自分が作ったものだ――。

今回はここで終わり。
直後に「信澄黒幕説・本能寺の変」がバッチリ明示されて次週予告となりました。
では、そのような信澄黒幕説は実際にあり得るのか?
考察してみたいと思います。
信長殺害の動機は否定できず
まず織田信澄が「信長を殺したい動機」については、まぁ、否定はできないでしょう。
史実の織田信澄が、父の織田信勝を信長に誅殺されたのは事実。
その後、信澄が命を救われ、織田一門の一人に名を連ねられたのは信長の救済策があったからですが、それでも父親を殺した相手には変わりない。

織田信長/wikimedia commons
特に、信澄の本心までは歴史に残りにくいので、ドラマではどうとでも描けます。
ただし、状況証拠からすると、黒幕説というのは非常に厳しい。
まずは事件当日、信澄の位置取りから見て参りましょう。
とても黒幕とは思えない信澄の位置取り
本能寺の変が起きた天正十年(1582年)6月2日、信澄がいたのは大坂城――かつての石山本願寺跡です。
信孝率いる四国討伐軍の一員として、渡海の準備真っ最中でした。
この四国討伐軍、決して小さな部隊ではありません。
総大将・織田信孝のもと、丹羽長秀ら諸将を合わせて1万4000規模の兵だったとされ、しかも「はなはだ華美で規律正しい」と評されるほど統制の取れた軍勢でした。
堺には渡海用の船が200艘も用意され、6月3日には出航の手はずだったといいます。
信澄はこの軍団の一員として、信長の甥という立場で堂々と組み込まれていたわけです。
もしも黒幕であるならば、これは相当まずい位置取りでしょう。
四国討伐軍というのは、信長の三男・信孝が総大将を務める、いわば織田家の軍事的中枢のひとつ。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
その懐に飛び込んだまま謀反の号令をかけるというのは、逃げ場のない檻に自ら入っていくようなものです。
本気で光秀に「本能寺の変」を起こさせる腹積もりであったなら、仮病でも何でもいいからとにかく理由を作り、四国討伐軍には参加しないという方法を模索せねばなりません。
もちろん、自害願望があって、事件直後に死ぬ予定だったら話は別です。
信澄は事件直後に何もしていない
本能寺の変が起きてから織田信澄が討たれるまでには数日の時間があります。
6月2日の凶報が届くと、織田信孝軍は浮足立って兵の多くが逃亡してしまいますが、信澄自身はそのまま大坂城に留まっているのです。
これが非常におかしい。
信孝と丹羽長秀が、信澄を攻め滅ぼしたのは、変から3日後の6月5日ですから、

丹羽長秀/wikimedia commons
もしも信澄が光秀と示し合わせていたら、この3日間に何かしらの動きがあってもよいのでは?
色々な可能性が考えられますが、実際は何も行動せず、その場に留まっていた信澄は無惨に殺されてしまいました。
共犯者にしては、あまりに動きが鈍い……というか何もしてないのは非常におかしい。
なぜ光秀と共に動かないのか?
光秀と個人的な関係は?
そもそも織田信澄と明智光秀の縁組み自体、二人が意気投合して結んだ関係という確証はありません。
天正二年(1574年)、信長が光秀に命じて、娘の一人を信澄に嫁がせたのです。
同時にもう一人の娘・明智たま(細川ガラシャ)も細川忠興に嫁がされています。
この2つの結婚は、あくまで信長が織田一門と有力家臣団を結びつけるために仕組んだ政略であり、光秀と信澄が独自に手を組んだ証拠にはなりません。

明智光秀/wikimedia commons
むしろ信長からすれば、甥の信澄と光秀の間で縁を結ぶことで、織田政権により強く取り込む狙いだったと言えるでしょう。
両者の関係性は、かなり不透明なところがあります。
まぁ、だからこそドラマでは自由に描けるところですが、現状、両者が「手を組んでいた証拠はない」ということです。
他の謀反人たちは?
上記のように、状況証拠から信澄と光秀が共謀したと思われる形跡はありません。
そして、信澄が光秀と謀反を打ち合わせていたことも示す史料も一点も残されていません。
信澄の死は「光秀の娘婿だから」ということで片付けられており、フロイスは信孝が信澄を討ったことで「河内の有力者たちがただちに彼のもとに集まった」とまで記しています。
つまり信澄殺害は、信孝が自らの求心力を高めるために利用した側面すらあったわけです。
ちなみに、実際に光秀の謀反に加担した人物と比べると、この差は際立ちます。
光秀の腹心・斎藤利三は本能寺襲撃の際に戦闘部隊を実際に指揮し、変後は逃亡先で生け捕りにされ、六条河原で首を刎ねられています。
「今度、謀叛随一也」と公家の日記に名指しされるほど、行動と処罰の両面で共犯の実態がはっきりしている。

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用
信澄にはこうした痕跡がまったくありません。
信澄の人物評そのものも割れています。
フロイスは「異常なほど残酷で、誰もが彼が死ぬことを望んでいた」という暴君像を伝える一方、奈良興福寺の多聞院英俊は「一段の逸物也」とその死を惜しんでいます。
ただしフロイスの評は、あくまで信澄の死後に書かれたもの。処刑された人物を悪しざまに書くのは、後世の記録にはよくあることでもあります。
結論をまとめます。
「信澄黒幕説」は、父の織田信勝を殺されたという動機だけ考えれば、成立します。
しかし、当時の状況証拠や史料を見ると、かなり苦しい。
作り手にしてみれば「ドラマだからどんなフィクションだってありでしょ!」というスタンスなのは、羽柴一家の大宴会からも伝わってきますね。
なお、史実の織田信澄の生涯については以下に別記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
-

なぜ織田信澄は本能寺の変後に殺されたのか?光秀の婿となった信長甥の運命
続きを見る
参考文献
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(2012年12月 吉川弘文館)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(2017年2月 中央公論新社)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
- 堀新・井上泰至編『信長徹底解読―ここまでわかった本当の姿』(2020年7月 文学通信)

