天正十年(1582年)6月2日、主君の織田信長を本能寺で討ち取った明智光秀。
そのわずか11日後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れるため、光秀に対してはこんなイメージをお持ちかもしれません。
「裏切り者のため味方が集まらず、なす術がなくなり、迫りくる秀吉にただ戦慄していた」
要するに、凡将というか愚将というか……まぁ、良い印象の方は少ないですよね。
しかし、実際の光秀は、そんなヘタレなわけはありません。
近隣の諸将へ使者を走らせ、近江の城を次々と押さえるだけでなく、朝廷へも使いを出し、京都の治安にも手を打つなど、かつて信長に重用されていたような高い能力を発揮していたのです。
問題は、思いのほか早くに戻ってきた秀吉に対し、十分な軍事力を準備できなかったことでしょう。
いったい光秀は誰を味方にして、どのエリアで防御体制を整えようとしていたのか?

明智光秀/wikimedia commons
本能寺の変直後の動きを振り返ってみたいと思います。
光秀が真っ先に手を伸ばした場所
織田信長と嫡男・織田信忠を同時に討ったことで、文字通り中枢が空白となった織田政権。
しかし、機能を失ったのはあくまで中央だけです。
北陸には柴田勝家、中国には羽柴秀吉、関東には滝川一益、そして摂津・和泉には四国攻めを準備する織田信孝と丹羽長秀など、各方面軍は健在であり、しかも全員が光秀の同僚格でした。

上段(柴田勝家・豊臣秀吉)と下段(滝川一益・丹羽長秀)/wikimedia commons
光秀も急いで中央(京都や近江)を押さえ、四方の方面軍団長たちに睨みを利かせなければならない。
そこで注目したいのが、本能寺の変当日の動きです。
実は光秀は、その日のうちに南に対しても兵を出し、宇治辺りまで押さえていました。
奈良から京都へ飛脚を出そうとした僧侶が「宇治ヨリハ通路かなわず」と記しており(『蓮成院記録』)、明智軍によって交通が遮断されていたことがわかります。
そして同日午後2時には、光秀自身が東の大津へ向かっています。
京を制して一息つくのではなく、都への重要な道を押さえにかかったのです。
そこで光秀が最初に接触した武将が“瀬田”の山岡景隆と山岡景佐の兄弟でした。
山岡兄弟の瀬田でいきなりつまずいた
瀬田は琵琶湖の南端、京都と近江を結ぶ交通の要です。
以下の地図をご覧のとおり、瀬田城は瀬田川の辺に立つ要衝ともいえ、そこから坂本城までは徒歩で約3時間の距離。
押さえれば、安土まで一気に進めます。
ゆえに絶対に外せないポイントであり、光秀は山岡兄弟に対して「人質を出して明智と同心」するよう使者を出しました。
しかし、山岡兄弟はこれを強く拒絶。
ただ断わるだけでなく、瀬田橋を焼き落とし、自分たちの居城である瀬田城にも火をかけると、山中へ逃げてしまったのです。
光秀は瀬田橋詰めに足がりを築き、いったん坂本城へ引き返すしかありません。
大事な仲間集めの一発目で、味方にするどころか橋まで焼かれてしまう――なかなか象徴的というか、幸先の悪い出足です。
近江の主要拠点を短期間で押さえる
明智光秀は焼け落ちた瀬田橋を修復させると、6月4日には渡河を果たして近江の平定に着手。
そのころ信長の居城・安土城では、留守を預かっていた蒲生賢秀が信長の妻妾たちを自らの居城・日野へ避難させ、安土から退去していました。

安土城/wikipediaより引用
『信長公記』によると、女性たちは「天主の金銀や刀を持ち出して城に火をかけるべきだ」と主張したものの、賢秀は「天下無双の御屋形」を焼くなど「冥加なき次第(罰当たり)」だとして説得したといいます。
もっとも毛利方の史料には、賢秀が宝物をことごとく持ち去ったと記されており(「小早川隆景書状写」)、真実のところは不明です。
いずれにせよ6月5日、光秀は戦わずして安土城へ入り、この時点で近江国の「城々分」がことごとく光秀の手に渡ったと考えられています(『蓮成院記録』)。
瀬田では遅れを取った光秀ですが、その後は首尾よく近江の平定に成功したのですね。
例えば、丹羽長秀の居城だった佐和山城には、光秀に降伏した山崎片家が入りました。
秀吉の居城・長浜城も同様。
ただし、入城した人物については斎藤利三、阿閉氏、京極高次と史料によって違います。
興味深いのが、早い段階で光秀に呼応していた顔ぶれです。
かつて若狭の大名だった武田元明は、丹羽長秀の下で不遇に耐えていましたが、この政変に「時ヲ得タリ」と述べて蜂起したと伝わります。
北近江では、かつての守護だった京極氏の当主・京極高次が再起し、浪人たちを集めて光秀に従いました。

京極高次/wikipediaより引用
信長のもとで冷や飯を食わされていた旧守護家が、いち早く立場を表明したんですね。
柴田勝家も、近江はすでに光秀に制圧されたと認識しています。
瀬田でつまずきながらも、なんだかんだで近江の主要な城と交通路を押さえた光秀の手腕は、やはり織田家臣団でもトップクラスの力量でした。
しかし問題は、味方集めでしょう。
一体どうしたのか?
頼みの綱は細川父子
明智光秀が最も期待していたのは、丹後宮津の細川藤孝・細川忠興父子でした。
藤孝父子は織田政権下で光秀の与力として行動することが多く、しかも忠興の妻は光秀の娘・玉(細川ガラシャ)。
これ以上ないほど近い関係です。

細川藤孝/wikimedia commons
6月9日付で細川父子に届けられた光秀の「覚」(『細川文書』)が残っており、その中身がなかなか生々しいものでして……。
まずは、藤孝父子が信長への弔意を示して元結を切った、つまり出家してしまったことに、光秀はいったん憤慨したと記しています。
ところが思い直し、「かようにあるへき」と、その行動を受け入れる姿勢に転じました。
その上で藤孝には摂津国を与えると持ちかけ、隣国の若狭を望むならそちらを優先して進上するとまで言い切ります。
自分の裁量で分国を配っているわけで、この時点の光秀が「信長死後の畿内において主導権を握った者」として振る舞っていたことがわかるでしょう。
しかも、これで終わりではありません。
次の第三条では、今回の「不慮之儀(本能寺の変のこと)」は忠興たちを取り立てるためであり、十日か百日のうちに畿内・近国を平定したら、あとは子息の十五郎と忠興に引き渡して、自分は何も望まないとまで述べています。

細川忠興/wikimedia commons
要は、隠居をほのめかしているんですね。
興味深いのは、本能寺の変のことを「不慮之儀」と表現していることでしょうか。
自分の起こした事件を「思いがけないこと」としており、周到な準備があったとは思えない発言となっています。
一連の文言をまとめますと、光秀は、藤孝の協力を当然のものと勝手に考えていて、事前に何も話が通っていなかったことを感じさせるのです。
そして結果は皆さんご存じの通り。
息子の細川忠興は妻の明智玉と離縁して光秀と縁を切る姿勢を示し、父の藤孝は重臣・松井康之を通じて羽柴方と連絡を取りました(『松井家譜』)。
結局、光秀がどんな人参をぶらさげ、調子のよい書状を書こうとも、最初から細川父子の出方は決まっていたわけです。
それでも明智光秀には、もう一人の頼みの綱がいました。
それが大和の筒井順慶です。
もう一人の頼みの綱・筒井順慶は
筒井順慶は、甲州征伐のとき光秀の「一手ノ衆」、つまり与力として加わっていた武将です。
他の武将より関係は近かったのでしょう。
順慶も、光秀の誘いに応じて、いったんは味方をすることにしています。
事件2日後の6月4日には軍勢を動かし、5日には光秀と合流しようと近江へ兵を入れたとも伝わるほどで、周囲も順慶のことをそう見ていました。

筒井順慶/wikimedia commons
しかし、その翌日には早くも雲行きが怪しくなっていきます。
筒井軍は引き返し、以後は動いたり止まったりを繰り返すのです。
奈良の僧・多聞院英俊が「いかゝ覚悟の相違哉」と首をひねるほどの煮え切らなさに対し、痺れを切らして光秀は6月10日、重臣の藤田伝五を送り込みます。
返事は……同心せず。
順慶は、その翌11日に秀吉と誓紙を交わしていますので、最初から日和見だったのではなく、迷いに迷った末に明智から離れていった――そんな経過が浮かんできます。
ちなみに「洞ヶ峠を決め込む」という言葉のせいで、順慶が峠に登って戦況を眺めていたように思われがちですが、これは後世の創作。
実際に洞ヶ峠へ出向いて順慶を待っていたのは、光秀の方であり、結局は徒労に終わるのでした。
一方、朝廷は光秀への対応を始めた
朝廷の動きは、味方集めよりも首尾よく進みました。
6月7日、吉田兼見が勅使として安土城を訪れ、光秀と対面。
勅旨を渡すと、日頃から親しい二人だけに話は弾み、「今度謀反之存分雑談」すなわち今回の謀反について光秀の考えを聞いたと記されています(『兼見卿記』別本)。
ならば是非とも、その詳細を日記に残して欲しかった……。
そうすれば本能寺の変の謎は一気に解消したかもしれない。

吉田兼見/wikipediaより引用
確かに兼見は、光秀の行為を冷静に「謀反」と記しています。
それでも、少なくとも朝廷が、光秀を事実上の権力者として扱い、治安の維持を求めていたことがわかるでしょう。
ただし、光秀のことを次の権力者として認めたのか、混乱を避けるため一時的な緊急事態だったのか、真の意図は不明です。
6月9日に光秀が上洛すると、兼見だけでなく摂関家や清華家の公家衆までが出迎えに待っていました。
信長の上洛時と同じ迎え方でした。
そこで光秀は、公家衆には「無用」と告げて先に帰らせ、町人たちの礼も堅く停止。
正親町天皇と誠仁親王に銀子500枚を献上したいと申し出ます。

正親町天皇/wikimedia commons
さらに京都五山と大徳寺に銀子100枚、兼見にも50枚を渡すのですが、いわゆるバラ撒きとは少し事情が違います。
朝廷や有力寺社に承認されることは、自分が次の秩序の担い手だと示すための手続きでもあり、いわば権力者の必要経費。
光秀は、京の治安にも気を配っていました。
変の直後から市中には様々な噂が飛び交い、人々は御所に仮小屋を建てて避難するような状態(『天正十年夏記』)。
そこで光秀は、洛中での略奪を禁じ、町を焼くことはないと布告して、人心の安定を図っています。
なお、大山崎では、変の翌日にあたる6月3日に早くも三カ条の禁制を得ていました。
京都の寺社よりも素早い行動であり、これは光秀の統治能力というより、大山崎の判断力や交渉力が優れていたということでしょう。
なにしろ大山崎は、6月7日には敵方である織田信孝の禁制まで取り付けていて(『離宮八幡宮文書』)、どちらが勝っても町が焼かれないように両方から保険を取り付けています。
光秀の支配が、まだ盤石でないことの証でもありました。
なぜ味方が増えない?
朝廷からは、事実上の権力者として扱われた。
近江の主要拠点も押さえている。
それでも軍勢は増えない。
一体なぜなのか?
光秀に人望がなかったから――。
そう見えるかもしれませんが、あらためて周囲の状況をまとめておきましょう。
まず、光秀に応じた顔ぶれがかなり偏っていて、武田元明、京極高次、そして各地の牢人衆など、織田政権で地位を失ったり冷遇されていた人々ばかりでした。
味方になってくれて当たり前と言いましょうか。
逆に、織田政権の中で高い地位にある武将ほど動いていません。
光秀に賭ける理由が乏しかったのでしょうし、実際、光秀に近いというだけで命が危うくなる状況が生まれていました。
光秀の娘婿であった織田信澄が6月5日、信孝と丹羽長秀によって大坂城で討たれています(『多聞院日記』ほか)。

信澄が本当に加担していたのかどうか、当時から不審とされハッキリとはしていません(『蓮成院記録』)。
それでも殺された。
この一件を見た畿内や周辺エリアの諸将が「光秀と親しいと思われるのはまずい」と考えたとしても、無理はないでしょう。
なんせ、情報の混乱も相当なものであり、毛利方の小早川隆景が書き残した書状写には「謀反之衆」として光秀のほかに筒井順慶や美濃三人衆の名前まで挙がるほどです。
別の書状では、光秀が織田信澄や柴田勝家と手を結んで信孝を殺した、という話まで流れていました。
むろん、いずれも事実ではありません。
地方の大名にとっては、畿内で何が起きているのか正確につかむこと自体が困難だったのであり、こんな調子ではいくら光秀が諸勢力に働きかけても味方になるどころの話ではありません。
何より、時間がない。
6月2日の事件当日から羽柴軍が上洛する13日まで、わずか11日。
そのうち光秀が京都に戻れたのは9日で、その4日後には山崎で戦うことになるのです。
味方集めに使える時間は、実質的に一週間ほどしかありませんでした。
結局、光秀は無策だったのか
あらためて見てみると、明智光秀がただ漫然と過ごしていたわけではないとご理解いただけるでしょう。
近江の主要拠点を押さえながら安土城に入り、朝廷に使者を送って、寺社に寄進したり京都の秩序に気を配ったり、同時に諸将へ何度も使者を出していました。
テキパキと……とは少し表現がおかしいかもしれませんが、やるべき事はやっています。
それでも、軍事力を増強できなかった。
ここで思い出したいのが、筒井順慶の動きです。
順慶は、秀吉につくと決めた6月11日、大和内にいた織田軍の諸勢力を呼び集め、血判起請に押印させています。
トップである織田信長が消えた以上、自身と彼らの関係も結び直さなければならないと考えたんですね。
同じことは、光秀にも当てはまります。
これまで光秀の下で働いてきた与力たちは、多くが信長の権威によって配属された人々でした。
その信長を討った以上、今度は光秀自身の力で、彼らを従わせ直さなければならず、朝廷の承認を取りつけようとしたのも、分国を気前よく約束したのも、その作業の一部だったのでしょう。
そして、それを11日で仕上げるのは、やはり無理があった。
一番の有力者であり盟友でもあった細川藤孝は出家をしてしまい、筒井順慶は迷った末に離れ、光秀に応じたのは織田政権で報われなかった人々が中心でした。
そこへ毛利と対峙しているはずの秀吉が戻ってきてしまった。

絵・富永商太
細川藤孝と羽柴秀吉の、光秀にとっては意外だった動きがやはり大きい。
結局、無策ゆえに滅びたというより、本能寺の変自体が事前に準備されたものではなく、次にやるべきことがあまりに多く、諸々の工作に費やす時間が短すぎた、そんな印象を受けます。
なお、光秀の動きを日付順に細かく追いたい方は、以下の記事もご覧ください。
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光秀最期の11日間|本能寺の変を起こし秀吉に敗れるまで何をしていた?
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参考文献
- 福島克彦『明智光秀――織田政権の司令塔』(2020年12月 中央公論新社)
- 柴裕之編『明智光秀 織豊大名の研究』(2019年5月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
- 洋泉社編集部編『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(2016年10月 洋泉社)
- 太田牛一著/中川太古訳『地図と読む 現代語訳 信長公記』(2019年9月 KADOKAWA)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)

