本能寺の変が起きた後、明智光秀に味方をした武将はその後どうなったのか?
普通に考えれば「山崎の戦い」で討ち死にするか、あるいは戦場から逃げ伸びても、その後、秀吉に処刑されるか。
いずれにせよ、武士としてマトモに生きていくことなど絶対に無理だとしか思えませんが、実は、8万5000石もの大名にまでなった者もいます。
いったい何が起きたらそんなことが許されるのか?

明智光秀/wikimedia commons
本記事で、明智光秀に味方した武将たちの“その後”を振り返ってみましょう。
光秀に味方をした主な武将
殺伐とした戦国時代とはいえ、あまりに露骨な裏切り者は、やはり嫌われてしまうようで。
本能寺で信長を討ち取った明智光秀には「誰も味方をしなかった」というイメージが強いでしょう。
実際、娘婿の細川忠興も、その父で光秀の盟友である細川藤孝も、大和地方で関係が深かった筒井順慶も、誰一人として味方にはならなかった。
んなもん当然でしょ!
と、思いきや……前述のとおり大名となった者もいます。まずは味方をした武将たちをピックアップしてみましょう。
◆本能寺の変後、明智光秀についた主な武将
京極高次(近江)……浪人を集めて光秀に服属
武田元明(若狭)……若狭で挙兵して丹羽長秀の勢力と対峙
阿閉貞征(近江山本山城)……長浜城に入る
山崎片家(近江)……一度は光秀方に付いたと伝わる
土橋重治ら紀州の雑賀衆……光秀と書状を交わしている
柴田勝定……光秀の娘婿と系図にある人物
やはり京都に近い近江と若狭が多く、織田政権では冷や飯を食わされていた勢力が中心。
例えば京極高次は、近江源氏・佐々木氏の嫡流という名門の出身でしたが、当時は落ちぶれて小身の身になっていました。

京極高次/wikipediaより引用
若狭守護の家に生まれた武田元明も実権を丹羽長秀に握られており、光秀による政変を絶好のチャンスと捉えたのでしょう。
意外なのは阿閉貞征でしょうか。
もともとは浅井氏を裏切って信長に付いた武将であり、光秀を慕う理由が特に感じられない……という発想を少しズラす必要がありまして。
この阿閉貞征、実は秀吉との間で色々とトラブルがあったため、とにかく「秀吉憎し!」で長浜城を奪い、明智方になったと考えられます。
事件後、すぐに長浜城を奪っているあたり、普段から相当怒りを抱えていたのでしょう。
同じ守護家でも明暗わかれた武田と京極
武田元明と京極高次の二人は、ほとんど同じことをしています。
そもそも武田元明は、若狭武田氏の当主です。
若い頃に朝倉氏の人質として越前へ送られ、信長の朝倉攻めで解放されたものの、若狭は丹羽長秀の支配下に置かれたままで、名ばかりの守護家。
本能寺の報が届くと旧臣を集めて動き、光秀方として兵を挙げました。
日頃から思うところがあったのでしょう。
京極高次も名門とはいえ、織田家中にあって目立たない存在。
いざ事件が起きると、阿閉貞征と共に長浜城を攻め落としています。

長浜城
秀吉の本拠を奪ったのですから、元明よりよっぽどド派手な行動ですが、山崎の戦いで敗れてからは正反対の運命が待っていました。
元明は同年七月、秀吉に呼び出されて近江海津で自害させられます(同年7月19日に殺害されたとも伝わる)。
享年30前後。
若狭武田氏は大名・守護家としての命脈を絶たれました。
一方、京極高次はしばらく身を隠した後に赦免され、織田・豊臣の家臣へ復帰。
しかも出世していきます。
まずは近江八幡山に二万八千石、文禄四年(1595年)には大津六万石となり、光秀に味方したとは思えないような厚遇っぷり。
一体なぜ、こうなったのか。
高次出世の理由は、松の丸殿こと京極龍子です。

松の丸殿(京極竜子)/wikipediaより引用
彼女は高次の姉であり、そもそもは武田元明の妻でした。
それが後に秀吉の側室となって寵愛され、結果、弟までもが厚遇されたという構図ですが、さらに高次にはもう一つの強コネもありました。
彼の正室が浅井三姉妹の次女・初だったのです。
浅井三姉妹といえば、長女の茶々が秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産んだことはご存知でしょう。
次女の江は二代将軍・徳川秀忠に嫁いでいて、当時、最強の三姉妹とも言える。
そんな姉と妻を持ち、出世した彼のことを世間では「蛍大名」と呼び、「女の尻の光で輝いている」と馬鹿にしました。
しかし、高次にも意地があったのでしょう、最後になかなかの奮闘っぷりを見せます。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで大津城に籠城すると、立花宗茂を含む西軍1万5000を城下に釘付けにしたのです。
開城したのは関ヶ原当日の9月15日。
西軍の主力である勇将を関ヶ原の本戦に立たせなかったのですから、これは間接的に勝利に貢献した殊勲者と言えるでしょう。

立花宗茂/wikipediaより引用
実際、家康からも評価され、高次は若狭小浜に8万5000石の石高を与えられ、慶長十四年(1609年)に没しています。
蛍と笑われた高次の家は、その後も残りました。
子の京極忠高は出雲松江に24万石となり、忠高が跡継ぎなく亡くなった後も、甥の京極高和が家を継いで讃岐丸亀へ。
丸亀藩・多度津藩として京極家は幕末まで続きます。
光秀に味方した武将のなかで、唯一、大出世した人物と言っていいかもしれません。
秀吉に消された者たち
もともと浅井長政に仕えていた阿閉貞征は、天正元年(1573年)に信長へ寝返り。
浅井滅亡の一因になったともされます。
前述の通り、本能寺の変後は積極的に長浜城を攻め、山崎の戦い後に捕らえられると、一族もろとも処刑されました。
紀州の土橋重治は、少し事情が違います。
土橋氏はもともと反信長の雑賀衆で、一族の守重が信長方の鈴木孫一に殺されるという因縁を抱えていました。
信長を討った光秀は、彼らにとって歓迎すべき存在だったのですね。
光秀が6月12日付で土橋に宛てた書状が現存しており、そこには足利義昭の「上意」に触れた一節があります。
将軍を担いで畿内を固める——
要するに「義昭の入洛を軸に反信長勢力をまとめる」という構想であり、光秀の描いた構想が読み取れる貴重な一通とされます。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons
ただし紀州勢が畿内へ出る前に山崎の戦いは終わってしまい、土橋氏は天正十三年(1585年)、秀吉の紀州攻めで没落し、以降は大きく後退しました。
近江の山崎片家は、一度は光秀方に付いたと伝わります。
しかし、早々に秀吉方へ転じたため、戦後は豊臣大名として残され、摂津三田に2万3000石を獲得。
子の家盛の代に因幡若桜へ移り、跡継ぎがないまま改易されたと伝わります。
光秀の娘婿だったという柴田勝定は、山崎後の消息はハッキリしません。
明智の血は残されたのか?
明智光秀も、光秀に味方した者も、多くは滅亡の道を辿り、武家としては消滅。
しかし、滅んだのはあくまで御家。
血脈まで奪われることはありません。
以下に、光秀やその他の重臣たちの血筋を見てみましょう。
春日局(福)……斎藤利三の娘として有名。三代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥を差配した。
斎藤利宗……利三の子で春日局の兄は、山崎の戦い後も生き延び、徳川の旗本となる。
三宅藤兵衛(重利)……明智秀満の子=光秀の孫と伝わる人物。細川家に仕え、天草で戦死した。
津田昌澄……光秀の娘婿・織田信澄(津田信澄)の子。大坂の陣では、大坂方として戦い、後に許されて近江に2000石を得る。
斎藤利三の娘が、よりによって徳川将軍家の乳母になるとは凄まじい話ではありませんか。

春日局/wikipediaより引用
なんせ利三は、光秀と共に本能寺の変の中心にいた人物であり、公家の日記『言経卿記』では「謀叛の随一(謀反の中心人物)」とまで書かれています。
その娘である春日局が徳川家光を育て、大奥の頂点に立つ――それもこれも父・利三の教養と評判が家康に評価されたからでは?と指摘する研究者もいます。
だからでしょうか。兄の斎藤利宗も幕府の直臣になりました。
三宅藤兵衛にも少し注目してみましょう。
明智秀満と光秀娘の間に出来た子、つまり光秀の孫と伝わる人物であり、細川家に仕えました。
細川家といえば、忠興に嫁いだ細川ガラシャの家。つまり光秀の娘の嫁ぎ先が、光秀の孫を拾ったことになります。
藤兵衛の最期がなかなか強烈で、寛永十四年(1637年)に天草の富岡城代として島原・天草一揆の軍勢と戦い、討死しています。
光秀の孫がキリシタン一揆に討たれていたのですね。
津田昌澄も注目してみましょう。
父の織田信澄は、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されたばかり。史実では、光秀の娘婿というだけで、本能寺の変3日後に大坂で討たれました。
その子は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では豊臣方として参陣。
二代続けて敗者の側にいたのに、戦後は家康に許され、近江で2000石を与えられています。
ちなみに、光秀の妻・熙子(ひろこ)の実家である妻木氏も、徳川の旗本として名を残しました。
まとめ
最後にあらためて整理しておきましょう。
滅亡……武田元明(自害)、阿閉貞征(一族処刑)、土橋氏(紀州攻めで没落)
生き残り……京極高次(若狭小浜8万5000石/幕末まで)、山崎片家(豊臣大名)
血は残す……春日局、斎藤利宗、三宅藤兵衛、津田昌澄
こうして並べると、生死を分けたものが見えてきます。
武功でも忠義でもなく「誰と縁続きだったか」という点、それだけです。
京極高次は姉と妻の縁で助かり、その姉の夫だった武田元明は死にました。
春日局は父の評判を、津田昌澄は父の血筋を、それぞれ徳川に評価されている。
戦国の終わりは、もはや武力ではなく縁で身の振り方が決まる時代だったんですね。
なお、光秀が渾身こめて築き上げた明智家臣団については以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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光秀が率いた明智家臣団|なぜ利三や秀満は最期まで光秀に付き従ったのか
続きを見る
【参考文献】
- 柴裕之『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
- 金松誠『筒井順慶』シリーズ・実像に迫る019(2019年10月 戎光祥出版)
- 『信長公記』『惟任退治記』『言経卿記』『兼見卿記』『寛政重修諸家譜』

