羽柴秀長は清須会議でどんな働きをして、いかなる所領を得たのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』では丹羽長秀の腰を揉み、池田恒興や織田信雄のホンネを探るなど、秀吉の補佐に徹していました。
そうした働きの結果、何を得たか?というと、ドラマではそこまで描かれていませんでしたね。
では史実はどうだったのか。
実は清須会議後の秀長は、明智光秀の旧領だった丹波を任され、信長旧臣のなかでは秀吉や勝家に次ぐ大身になったという見立てもあります。
大出世ではないか!
と思いきや、その実態となると、非常にややこしい状況となっておりまして。
丹波といっても実際に秀長が任されたのはごく一部だけで、しかも支配期間がわずか1年強だったという記録も残っているのです。

豊臣秀長/wikimedia commons
いったい秀長は清須会議で何を得たのか、振り返ってみましょう。
以前から但馬の大名だった秀長
実は羽柴秀長は、清須会議の時点ですでに独立した領国経営者でした。
秀吉の単なる付属品ではなくれっきとした大名であり、それは何時からだったのか?というと本能寺の変から遡ること5年の天正五年(1577年)が契機となりました。
兄の中国征伐に従い播磨へ赴いた秀長は、但馬攻めに参戦。
さらには天正六年(1578年)にも但馬攻めを主導すると、天正八年(1580年)には但馬のほぼ一国を制圧し、竹田城を居城とする同国の支配を任されたのです。

雲海に浮かぶ竹田城
ただし、規模については研究者で見解が分かれています。
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である黒田基樹氏は著書『羽柴秀長の生涯』の中で、但馬八郡のうち朝来郡・養父郡・七美郡・気多郡の4郡、つまり但馬半国だったと指摘。
一方、同じく時代考証者の柴裕之氏は著書『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』の中で「ほぼ但馬一国」としており、表現に幅があります。
いずれにせよ、数郡規模の実務を任される一人前の領国大名だったことに変わりはありません。
残る郡は宮部継潤(城崎郡・美含郡)や木下昌利(出石郡)に任されていました。
但馬国は、秀吉色の強い織田家臣たちで分割統治されており、この体制のまま迎えたのが「本能寺の変」だったのですね。
清須会議で丹波を獲得?
本能寺の変から2週間後となる、天正十年(1582年)6月27日――。
尾張で清須会議が開かれ、

清須会議のメンバー/上段(池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀)下段(織田信雄・柴田勝家・織田信孝)/wikimedia commons
秀吉が獲得した所領の中に秀長の名が出てきます。
【意訳】(秀吉が新たに得た所領のうち)山城一円は秀吉のもの、丹波一円については筑前守の弟・小七郎(秀長)へ
【原文】筑前へハ山城一円・丹波一円コレハチクセンカ弟ノ小七郎(小一郎の誤記)へ
出典『多聞院日記』7月7日条
「小七郎」とは小一郎、すなわち秀長のことであり、丹波が丸ごと譲られたと記録されています。
秀吉は、秀長に丹波を任せることにより、「但馬衆」と「丹波衆」を合わせて山陰道を押さえる、強力な一門軍団の創設を計画していたのではないか、とも指摘されるところ。
確かに、但馬に丹波が加われば、山陰道の広い範囲を秀長一人が押さえることになり、信長旧臣のなかでも秀吉や勝家に次ぐ大身となりましょう。
しかし、話はここで終わりません。
秀長の丹波統治は、実現化しなかったのです。
いったい何があったのか?
丹波の主は御次秀勝になった
清須会議が終わり、丹波平定も一段落したと思われる天正十年(1582年)10月頃。
丹波の主城・亀山城主となっていたのは、秀長ではなく御次秀勝でした。
御次秀勝とは、秀吉の猶子となっていた織田信長の五男(あるいは四男)であり、彼が名目的に丹波国主となっていたのです。
なぜ、こんな急な方針転換が起きたのか。
理由として考えられるのが、秀吉の標的が北陸の柴田勝家へ変わったことでしょう。
西の毛利氏とは講和の道を探りつつ、秀吉自身は播磨から山城へ拠点を移して北陸への対応に備える――そんな政策転換がありました。
そこで播磨の支配ならびに毛利氏対策の責任者となったのが秀長。
丹波を任せるより、もっと重要であった但馬・播磨の防衛ライン堅守が優先されたのです。
秀長は、西国の守りを一手に引き受けることになりました。
丹波より重要な対毛利防御
では、秀長と丹波は完全に無関係になったのか?というと、そうでもありません。
丹波一国も、完全に御次秀勝の領国になったわけではありません。
史料には「天正年中明智亡後丹波ハ大坂御蔵入ニ成」とあり、丹波の多くは秀吉の蔵入地(直轄領)とされました。
要は秀吉の所領ですね。

豊臣秀吉/wikimedia commons
御次秀勝が若年で病弱だったため、とても丹波一国を支配しきれなかった、という現実の問題もありました。
秀吉としては、一門領にはできる限り蔵入地を設定する方針を貫いていたようで、実際は以下のとおりに丹波が治められていました。
◆御次秀勝……丹波亀山周辺のみを支配(名目上の丹波国主)
◆その他の拠点……秀吉重臣の手に分散
◆秀長……但馬に隣接していた天田郡域(福知山周辺)を担当
秀吉重臣の手に委ねられた拠点のひとつが天田郡、つまり福知山周辺であり、但馬に隣接するという地理的要因から秀長に任されています。
つまり、秀長の支配は丹波一国ではなく「丹波の一部、それも但馬の延長線上にある一角」というのが実態だったのですね。
なお、家臣の発給文書(上坂文書)を追うと、秀長が福知山を治めていたと確認できるのは天正十年7月から翌十一年9月まで、わずか1年強しかありません。
江戸期の『天田郡志資料』には、天正十二年(1584年)9月に秀長が福知山城主になったという別の記録も残っており、史料によって時期の食い違いも生じています。
いずれにせよ秀長にとっては最重要拠点ではありませんでした。
結局、丹波は手放した秀長
清須会議の混乱を経て、天正十一年(1583年)4月に「賤ヶ岳の戦い」が勃発。
柴田勝家がお市の方と共に滅亡しました。

柴田勝家/wikipediaより引用
このときの領地配分で、秀長の領国は「播磨三郡・但馬一国」となり、丹波は入っていません。
賤ヶ岳合戦後の所領配分では、秀長が播磨三郡・但馬一国を得て、それまで秀吉の本拠だった姫路城に移ったといいます。
石高にして14万石ほど。
そして、この時期から秀長は安芸毛利家への取次も務めるようになりました。
西国の守りの要として、丹波の飛び地よりも播磨・但馬・毛利対策に専心したのでしょう。
清須会議の当初構想(丹波一国+但馬)で得られたはずの所領は結局実現せず、代わりに手にしたのは播磨・但馬という、非常に現実的なエリアでした。
最後に羽柴秀長と清須会議の関係を整理しておきましょう。
まとめ
①清須会議より前
天正八年(1580年)にほぼ但馬一国を経営する独立した領国大名だった。
ただし「但馬半国」とする見方もある。
②清須会議の当初構想
『多聞院日記』には「丹波一円は秀長へ」という記録がある。
但馬衆と丹波衆をあわせた一門軍団を創設する狙いだった。
③しかし計画は変更された
清須会議後の10月頃、丹波国主(名目上)となったのは御次秀勝。
秀長が任されたのは丹波の一部、天田郡(福知山周辺)のみだった。
④秀長の福知山経営
福知山の支配を確認できる期間は天正十年7月〜十一年9月で、わずか1年強。
しかも史料によって時期の食い違いが生じている。
⑤賤ヶ岳の戦い後
秀長の領国は「播磨三郡・但馬一国」となり、丹波は含まれない。
この頃から毛利家への取次役を務めるようになる。

豊臣秀長/wikimedia commons
いかがでしょう?
秀長が、丹波一国を拝領した「大身」という評価自体は、清須会議当初の構想としては間違いではないのかもしれません。
しかし実現したのは丹波のごく一部で、しかも1年強だけという小規模なものでした。
清須会議は、秀長にとって領地の拡大ではなく、役割の転換点だったとも言えそうです。
但馬の一大名から、播磨・但馬・毛利対策を担う、西国防衛の要へ。
そしてその後は、大和などで百万石もの所領を得る大大名となります。
大和は、丹波以上に重要な土地とも言え、秀吉を補佐する立場として秀長は働き続けましたので結果オーライとも言えるでしょうか。
なお、清須会議で結果的にいちばん得したのは誰だ!という記事は以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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清須会議で一番得したのは誰だ!織田家主要人物7名の政治力ランキング
続きを見る
【参考文献】
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(2025年9月 平凡社新書)
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(2025年10月 KADOKAWA・角川選書)
- 柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(2024年11月 戎光祥出版)
- 『多聞院日記』『丹波州福知山伝記』『丹波国福知山領伝記』『天田郡志資料』/上坂文書

