清須会議により、四宿老で三法師をもりたてることが決まった織田体制。
天正十年(1582年)8月、そんな羽柴秀吉のもとに安土からの一報が届きます。
織田信孝が三法師を岐阜城へ連れていった――。
信孝が、三法師を取り込み織田家を掌握しようとしているのは明らかで、これに対して秀吉はどう動くのか?
ドラマの中での秀吉は、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の宿老たちに黙って、織田家傘下の諸将たちを自軍に取り込もうとしていましたが、果たしてあの動きは実際にあったことなのか。
大河ドラマ『豊臣兄弟』第31回を史実面から振り返ってみましょう!
ドラマのあらすじ
まずはドラマの動きをサッと確認しておきます。
三法師を取り込んで権力を掌握しようとする織田信孝。
そんな信孝を実際は支持していると思われる柴田勝家。
秀吉もそうした動向は最初から織り込み済みであり、丹羽長秀や前田利家のもとへ羽柴秀長を派遣させますが、いざ秀長と面会した長秀や利家はとりつく島もないほどに激怒します。
なぜなら当の秀吉が、陰で色々と工作していたからです。

秀吉は、他の宿老たちに黙って織田家の諸将に書状を送り、新たな所領を確約するなどして羽柴軍へ味方をするよう、織田家内での“調略”を進めていました。
秀吉の真骨頂ですね。
しかし、それを知らされずに口をポカ~ンとさせる秀長が、さすがにマヌケというか可哀想というか……。
「(秀長へ)事前に伝えたら反対されるから黙って事を進めた」
秀吉はシレッと秀長に伝えます。
あくまで秀長には腹黒政治はさせない方針なんですね。
ともかく、このままでは織田家がバラバラになるのは明白。なんつったって、秀吉が勝手に自軍の勢力を拡大させようとしているのですから、他の宿老も黙ってはいられません。
そのため秀吉に裏切られたような秀長も、まだ頑張ろうとします。
柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らの宿老をはじめ、織田家の諸将を再び結集させるため、信長の葬儀を提案するのです。
しかし、彼らはその前に妙心寺で信長の「卒哭忌(百箇日法要)」を決行。
秀吉を除け者にして葬儀を行い、その施主を務めたのがお市の方でした。
これで秀吉の出方も決まります。
敵は柴田勝家だけではなく、お市の方。

決意を新たにした秀吉は、織田信雄を担ぎ上げ、岐阜城の織田信孝を囲むことを決めました。
図式としては、おおよそ以下の通りですね。
お市の方・柴田勝家・前田利家・織田信孝・滝川一益
vs
羽柴秀吉・羽柴秀長・織田信雄・丹羽長秀
あれ? 秀吉に激怒していた丹羽長秀はなぜ羽柴の味方に?
そう思われるところですが、丹羽長秀は、秀吉が織田家の諸将を味方につけた実力に「屈服する」と認めてしまいました。
以上、第31回放送の流れに沿って、注目したい史実テーマが以下の通り。
・信孝は三法師を利用して天下を狙った?
・安土城の修繕は丹羽長秀に任されていた?
・丹羽長秀と前田利家は秀吉を敵視していた?
・信長葬儀での秀吉暗殺未遂事件
・秀吉による織田家諸将の調略
さっそく見てまいりましょう!
信孝は三法師を利用して天下を狙った?
まず、話の発端になった三法師の一件。
清須会議の決定で三法師は安土城に移ることになっていました。
しかし安土城は、天正十年(1582年)6月15日の火災で天守と本丸を焼失しており、織田政権の中枢に戻すには時間がかかります。
その間、三法師を手元に置いたのが信孝でした。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
ドラマ時代考証者・柴裕之氏の編著『戦国武将列伝 別巻1 織田』の中でも「信孝は三法師の後見役という立場を得たことで、次第に信長の後継者として振る舞い始めた」と指摘しています。
具体的には、公家や門跡、寺社が代替わりの所領保証や訴訟の解決を信孝に求め、信孝も積極的に応えていった。
訴訟の判断は権力者の重要な仕事ですから、その証明となりますね。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書翰にも「彼は天下の主君となることを望んでいた」と記述。
もう一人のドラマ時代考証者・黒田基樹氏も著書『お市の方の生涯』の中で、信孝が三法師を擁して事実上の名代化を進めたことに対し、秀吉が安土城再建を急がせる形で対抗したと記しています。
そう、安土城の修繕は、信孝の三法師抱え込みと同様に重要な政治的象徴となっていました。
ドラマでは丹羽長秀が対応することになっていた安土城。
実際、当時はどういう状態だったのでしょうか。
安土城の修繕は丹羽長秀に任されていた?
ドラマでは、小一郎(秀長)が丹羽長秀に普請を急がせるよう進言していました。
これが史実に近い描写でして。
丹羽長秀が再建に奔走していましたが、実際は思うように進まなかったことが、秀吉の書状から伺えます。
【意訳】安土城の普請を急ぎ、織田家当主の三法師を早く安土へ移らせるように
出典:秀吉書状(専光寺文書・天正十年8月11日付)
秀吉自らが、丹羽長秀に工事を急かしていたことがわかります。
しかしその1ヶ月後の9月3日には、柴田勝家から長秀へ書状が届けられ、「修築が十全におこなわれてからでよい」という秀吉とは反対の意見が示されていました。
秀吉が三法師を取り込もうとする動きに対し、勝家が警戒。
安土城の普請奉行という立場は、丹羽長秀にとって名誉なだけではなく、秀吉と勝家の両陣営から板挟みになる大きな負担でもあったんですね。

丹羽長秀/wikimedia commons
で、実際安土城はどうなったか?
長秀が奔走するも、完全に元通りになることはありませんでした。
城郭研究者の千田嘉博氏は著書『信長の城』の中で「発掘調査の結果、焼失した天主・本丸は再建されなかった」と指摘しています。
三法師や信雄が安土城に入ったとされる時期も、実際には焼け残った山麓の屋敷群が利用されたようで。
天正十一年(1583年)6月、信雄が伊勢長島城へ移ると、安土城は事実上の廃城となります。
しかも安土城の悲劇はこれで終わりません。

安土城/wikipediaより引用
天正十三年(1585年)になって羽柴秀次が近江八幡山に城を築いた際、安土城に残っていた建物や石垣がそっくり移築されてしまうのです。
信長が心血を注いだ天下の城は、そうして姿を消していきました。
奉行として築城を担った丹羽長秀の悲しみはいかばかりか……。
丹羽長秀・前田利家は秀吉を敵視していた?
ドラマの丹羽長秀は、坂本城を訪ねてきた小一郎に対し、こう言い放ちました。
「すっかり上様の跡を継いだ気でおるのか! 筑前に伝えよ、もはやともに三法師様をお支えすることなどできぬ!」
丹羽長秀といえば秀吉に親しいイメージ。
それがここまで激しい非難をするとは意外かもしれませんが、これに近い記録が存在します。
秀吉が10月15日に信長の葬礼を行うことに長秀は反対だったようで、当日は自身が参列せず、代理を三人立てたというのです(蓮成院記録・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』)。
ただし、話はそう単純でもありません。
葬儀そのものは、9月の段階で秀吉が長秀・堀秀政・長谷川秀一と本圀寺で協議し、諸将の合意を取り付けたものでした。
しかし枠組みには賛成しながら、いざ本番になると丹羽長秀は出席を渋る。
ドラマのような真っ向対立というより、複雑な態度だったと見るほうが実情に近いのかもしれません。
一方、秀吉を激しく非難していた前田利家についてはどうか。

前田利家/wikipediaより引用
利家もまた秀吉とは親しいイメージですが、ドラマでは柴田勝家のサイドに立って、秀吉に激昂していましたよね。
研究者の大西泰正氏は著書『前田利家・利長』の中で「利家が秀吉を敵視していたことを示す記録は見当たらない」と述べています。
利家はもともと柴田勝家の指揮下に編成された“与力”でした。
織田信長の家臣ではありますが勝家の家臣ではなく、柴田軍には一時的にあずけられていただけ。
賤ヶ岳の戦いでも、行きがかり上、柴田陣営で秀吉との対戦を迎えたのであり、そもそも2人は後に秀吉が「おさなともだち」と表現するほど親しい間柄でした。
ドラマで利家が敵意をあらわにした場面は、緊張感を高めるための脚色と言えそうです。
本作の利家と秀吉は、当初から敵対しあい、槍試合でも死闘を演じていましたね。
衝突しながら今後の友情を育んでいくという設定かもしれません。
信長葬儀での秀吉暗殺未遂事件
ドラマでは、天正十年(1582年)10月の大徳寺で、信長の葬儀が行われました。
織田信長の実子で、秀吉の養子となっていた御次秀勝を喪主にして開催。
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このとき福島正則らが、秀吉を狙う刺客を捕らえると、その手に隠されていた苦無(くない・忍びの武器)は伊勢、つまり滝川一益の手の者だったという展開でした。
秀吉は、葬儀の参列者が見守る中、その刺客を背後から斬殺! すると見せかけて縄をほどく、「人たらし」っぷりを見せつけます。

この暗殺未遂事件は、かなり戦国創作っぽいエピソードですよね。
実際、ドラマのオリジナルストーリーなのでしょう。
信長本人に関しては、杉谷善住坊による狙撃など複数回の暗殺未遂事件が『信長公記』にも記録されていますが、秀吉個人を狙った同様の事件記録は見当たりません。
ただ、このときの葬儀そのものが非常に警戒されていたのは事実であり、軍記物などでは警備の兵数が3万という異例の数字で語られています。
3万とは……さすがに多すぎで寺も周囲もパンパンじゃろ。
そうツッコミたくなるように、研究者の河内将芳氏は著書『図説 豊臣秀長』の中で「実数は千人ほどだったのではないか」と分析しています。
秀吉と敵対していた織田家の宿老たちが揃って参列を拒否していただけに、秀吉側の警備が異例の規模となったのは間違いないのでしょう。
刺客のエピソードは創作だとしても、張り詰めた空気の中で葬儀が行われていたのは間違いなさそうです。
秀吉による織田家諸将の調略
今回のドラマは「信長の葬儀」が大々的に描かれました。
ただ、それと同様かそれ以上に興味深かったのが「秀吉による織田家諸将の調略」ではないでしょうか。
劇中で、丹羽長秀が「屈服した」と認めた、秀吉の事前工作。
長秀が手にした巻物には数多の名前が記されており、秀吉が多くの者たちを取り込む姿が長秀の動揺と共に描かれたわけです。
果たしてあの場面はどれだけ史実に沿っているのか?
その一例として注目したい記録が北伊勢方面の諸将です。
研究者・平山優氏の著書『小牧・長久手合戦』によると、天正十一年(1583年)閏1月の時点で、秀吉が北伊勢の滝川方諸将に対する調略を実施しており、かなりの成果を得ていたことが記されています。
滝川一益は所領の再配分に不満を抱え、信孝・勝家方に合流していましたが、その配下を切り崩す動きが実際に進んでいたわけです。
そう考えると、ドラマで滝川一益が送った刺客が秀吉に取り込まれるシーンは、象徴的だったと言えますね。

滝川一益/wikipediaより引用
一方、丹羽長秀・前田利家・織田信雄については、少し事情が違います。
長秀については、直接「調略した」という書状は見当たりません。
ただ、研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で「長秀が秀吉陣営についたことは、戦力以上に信長旧臣へ与える精神的な影響が大きかった」と評しています。
秀吉の先輩格であり、羽柴の「羽」の字を与えた恩人ともされる長秀が味方につくのは、非常にシンボリックな出来事だったのでしょう。
前田利家についても、事前の内通を示す一次史料はないというのが多くの研究者たちの見方。
調略というより、もともと2人が親しかったのが影響しているように思われます。
かなり急ぎ足の説明になって申し訳ありませんが、織田信雄についても注目しておきたい出来事があります。
天正十年(1582年)10月に開かれた本圀寺会談です。
秀吉が丹羽長秀・池田恒興と話し合い、織田信雄が三法師の「名代」に据えられることが決められました。
柴田勝家・織田信孝らを織田体制から引き剥がす戦術の一つですね。
こうして見ると、秀吉の調略には濃淡があります。
滝川一益の諸将には、確かに調略の手を伸ばす一方、丹羽長秀・前田利家・織田信雄については、配下を調略するのではなく、彼らの地位や血縁、秀吉を含めた複雑な旧知の間柄が絡み合っています。
その結果、徐々に秀吉方へ傾いていった、というのが実情に近そうです。
ドラマで描かれた「織田家の調略済み諸将リスト」は、そうした複雑な状況をわかりやすく一枚の書状に凝縮したのでしょう。

第31回放送の史実まとめ
最後に第31回の史実ポイントを整理しておきましょう。
①三法師を巡る対立……織田信孝が三法師を手元に置き、天下人のように振る舞ったのは史実に近い
②安土城の修繕……丹羽長秀が再建を担っていたのは事実だが、完全復旧はせず、後に廃城となる
③丹羽長秀と前田利家の対秀吉感情……丹羽長秀の反発は記録に残されているものの、利家が敵視する根拠は見当たらない
④葬儀での暗殺未遂……おそらくドラマの創作
⑤秀吉の調略……滝川方には確かな調略の記録が残されているが、丹羽長秀・前田利家・織田信雄たちは様々な要因から秀吉派となっていった
清須会議で四人体制を作った秀吉は、わずか半年ほどで枠組みを自ら壊していったと言えます。
柴田勝家と共に最期を迎えたお市の方が、秀吉に対して敵愾心を抱いても不思議ではないでしょう。
安土城や信長の葬儀を大々的に打ち出しながら、実際は織田家の諸将を調略した――そんな秀吉の腹黒戦略がドラマで描かれていたように感じます。

ただ、そのために劇中で割を食ったのが、他ならぬ主役の豊臣秀長かもしれません。
兄・秀吉の老獪な政治力が花開く一方、それに振り回されて、なんだか単に人が好いだけでインテリジェンスを感じさせない人物像と申しましょうか。
秀吉が面白い存在になるのと比例して、今後、秀長の魅力も増していくことを期待したいです。
なんせ、秀長も数えで43歳ぐらいで、いい大人ですので……。
よろしければ「秀吉がいつから天下を意識していたのか?」という記事も併せてご覧ください。
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秀吉はいつから「天下」を狙っていたのか|本能寺・清須会議・賤ヶ岳の権力掌握
続きを見る
【参考文献】
- 柴裕之編著『戦国武将列伝 別巻1 織田』(戎光祥出版)
- 黒田基樹『お市の方の生涯』(平凡社)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA・角川新書)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 大西泰正『前田利家・利長―創られた「加賀百万石」伝説』(平凡社)
- 千田嘉博『信長の城』(岩波新書)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版)
- 『信長公記』『多聞院日記』『蓮成院記録』『晴豊記』/専光寺文書・丹羽長秀文書集

