奈良県の大和郡山城には奇妙な特徴があります。
石垣にお地蔵さんが埋まっている――。
城の石垣といえば、山から切り出した岩を積み上げる印象が強いですから、仏像が混ざるのは罰当たりであり、いかにも作り話のように聞こえるかもしれません。
しかし、これが事実なのです。
しかも1つや2つでなく、天守台の北面には「さかさ地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩立像まで埋め込まれており、今も参拝者が絶えないほど。

郡山城の「さかさ地蔵」
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも、石仏を背負って運ぶ改修工事のシーンが描かれていましたよね。
羽柴秀長が大和へ入り、郡山城を本拠と定めたのは天正十三年(1585年)。
そのときの大改修で信仰の対象まで石垣に積み込んだと語られてきましたが、近年の調査によって話がややこしくなってきました。
いったい郡山城の石垣に何が起きていたのか?
石仏をめぐる謎と共に振り返ってみましょう。
石垣に埋まっている石の数
まずは以下の数字をご覧ください。
郡山城の改修のため用いられた石材の数が尋常でないことがわかります。
◆郡山城の転用石材

郡山城
・昭和50年の調査では城内全体で約700点確認
・判別しづらい加工石を含めれば千個を超えると推定
・天守台や本丸東面の石垣では再調査によって確認数が大幅に増加
・天守台石垣の裏込め(全体の約1割を解体)では790点
【参考】大和郡山市『史跡郡山城跡保存活用計画』
転用石材(てんようせきざい)とは、もともと別の目的で使われていた石を、石垣の材料として流用したもの。
郡山城では礎石、五輪塔、石仏、塔婆、宝篋印塔、台座などが確認されており、このうち石仏はおよそ200基。
調査が進むにつれ、その数は増えていきました。
経年で抜け落ちてしまう石もあるため厳密な数を把握するのは難しいですが、いずれにせよ膨大な量であることに変わりはないでしょう。
いったい羽柴秀長はなぜそんなことをしたのか?
なぜ石仏まで積んだのか
理由は単純で、石が足りなかったからです。
ただし「大和に石がなかった」というわけではなく、大和郡山市の保存活用計画では、地元特有の事情を2つ挙げています。
◆郡山城に転用石材が多い理由
・築城した丘陵で採石できないため、周囲一帯から石材を集めるしかなかった
・寺社が多く、もともと周辺に石仏や石塔が大量にあった
城のすぐ足元では石が採れなかったんですね。

豊臣秀長/wikimedia commons
一方、奈良という土地は、平城京の昔から積み重なった千年ぶんの石造物が転がっていました。
ならばこれを利用してしまおう!
羽柴秀長がそう考えるのも無理はなかったでしょう。
なんせ当時は、大和・紀伊・和泉の三カ国を治める大名となっており、それに相応しい城を大急ぎで仕上げなければなりませんでした。
そうして筒井順慶や筒井定次が利用していた郡山城を、本丸や二の丸を備えた大城郭へと拡張していったのです。
なお、城下町までを囲い込む外堀が完成したのは、秀長没後に城主となった増田長盛の時代とされています。
秀長の時代は、墓石だろうと仏像だろうと、ともかく四角くて頑丈なら積んどけ!
そんな割り切りだったのでしょう。

郡山城
羽柴秀長は奈良中へ、石垣用材の供出と人足の動員を繰り返し通達しました。
その記録が残っています。
興福寺の境内から運び出された
郡山城の石材をめぐる記録とは、ザッと以下のとおりです。
・天正十五年(1587年):根来寺の大門を運ぶ。水谷川(みずやがわ・水屋川)の石を取る
・天正十六年(1588年):奈良中に「五郎太郎石」を出させる
・天正十七年(1589年):興福寺境内の大小の石、ことごとく郡山へ運ぶ
・天正十八年(1590年):秀長、薬師寺での採石を禁じる
根来寺の大門は、あまりにも巨大でした。
木津から郡山へ着くまで4日も5日もかかってしまい、連日の作業に駆り出された人々はすっかり悩まされたといいます。
「五郎太郎石」とは小石のこと。荷は担いで運ぶ量を表す単位で、それを家ごとに20荷ずつ出せというのですから、人々は小石を集めなければ!と大騒ぎになりました。
そのうえで天正十七年(1589年)、ついに興福寺へ手が伸びます。
大勢が境内へなだれ込み、大小の石がことごとく運び出されるのです。

興福寺五重塔
興福寺といえば大和を長く支配してきた大寺院であり、しかも秀長の大和入りに真っ向から抵抗し、検地をめぐって激しくぶつかった相手ですから、寺側の心中は察するにあまりあります。
翌年になって、秀長は薬師寺での採石を禁じています。
さすがにやりすぎたと思ったのか、あるいは寺社からの抗議が限界に達したのか、詳細な理由は不明ですが、みずから歯止めをかけたという事実だけが残っています。
そこで気になるのが石仏です。
仏門の人々にとって、石仏を石垣に転用するなどあまりに罰当たりにも見えますが、現在の大和郡山城には「さかさ地蔵」という名所にもなるスポットがあります。
これも秀長が埋め込んだものなのでしょうか?
天守台の大部分は秀長没後に築かれていた
天守台の北面石垣に積まれたさかさ地蔵。
奈良中から石仏をかき集めたとつなげれば、当然これも秀長の時代に行われたと考えたくなるところでしょう。

さかさ地蔵
大和郡山市の保存活用計画では、郡山城の石垣の積み方を分類し、それぞれの構築年代を推定。
以下のように分析しております。
◆郡山城の石垣の年代
・最も古い様式(転用石材を豊富に用いる):天正年間の構築
・天守台付近の本丸東面石垣の隅角部など:文禄年間頃
・天守台石垣の大部分:解体修理の成果から慶長初頭頃
天正年間の石垣には、秀長の大改修によるものも含まれるとみられます。ただし郡山城の天正年間には、筒井順慶が城主だった時期も含まれるため、すべてを秀長期と断定することはできません。
そして天守台石垣の大部分とされる慶長初頭は、明らかに秀長ではありません。
なぜなら天正十九年(1591年)に逝去しており、そうした指示を出しようがないのです。
しかし、大部分とは穏やかではありません。
いったい秀長の時代から何が起きていたのでしょうか?
原因は慶長元年(1596年)に発生した慶長大地震と目されています。
このとき郡山城の天守や柵が破損したとされるため、改修したと思われるのが、文禄四年(1595年)に同城へ入った増田長盛でした。
豊臣五奉行の一人として知られる武将ですね。

増田長盛/wikipediaより引用
後世の調査で、石垣の裏側を埋める裏込めにも石仏や石塔が大量に使われていることが判明し、我々の目に触れているのがほんの一部だったこともわかります。
つまり、いま私たちが見上げている天守台の大部分は、秀長時代のものではありません。
残念ながら「さかさ地蔵」については、増田長盛修築のときに組み込まれたのか、秀長の時代からのものを積み直したのか、今も詳細は不明です。
転用石材は天正年間から使われていた
調査によって、現存する天守台石垣の大部分は秀長の没後に築かれたとみられることがわかりました。
いっぽう、天正年間の石垣にも転用石材は豊富に使われています。
しかし「転用石材を豊富に用いて直線的な勾配で構築する石垣」というのは天正年間と見られ、秀長の大改修で集められた可能性は高いと言えるでしょう。
もっとも天正年間といっても、前半は筒井順慶の時代であり、どこまでが秀長の仕事なのか、線を引くのは簡単ではありません。
秀長の跡を継いだ豊臣秀保や増田長盛の時代は、そのやり方を引き継いだのでしょう。
結論をまとめるとこうなります。
・天正年間の石垣には、石仏や石塔を含む転用石材が豊富に使われている
・天守台石垣の大部分は、秀長没後の文禄末から慶長初頭ごろに築かれたとみられる
・さかさ地蔵を誰が積んだのかという断定はできない
ちなみに本丸の石垣には「五尊石仏」と呼ばれる石も積まれています。
奈良市の頭塔(ずとう)から持ち込まれたものとされ、現在は大和郡山市の指定文化財です。
もとは信仰の対象だったものが石垣の部材として積まれ、いまや文化財として保護されている。
それも郡山城の魅力と言えるでしょう。
なお、さかさ地蔵については、いつのころからか信仰を集めるようになり、石垣のすき間に向かって手を合わせる人が今も絶えません。

郡山城の「さかさ地蔵」
毎年、お城まつりの初日には法要も営まれ、天守台や石垣に積み込まれた石仏や墓石、そして城の歴史に連なる諸霊が慰められています。
石垣に組み込まれて400年以上。
積んだのが誰であれ、地蔵は結局のところ、拝まれる立場へ戻ってきたわけですね。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』で退場となり注目された蜂須賀正勝は、実際にどんな仕事を手掛けたのか?という関連記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
-

蜂須賀正勝が本当に手掛けた仕事とは?足利義昭から紋を賜った交渉役の実像
続きを見る
-

羽柴秀長の大和入りを最も支えた武将は誰だ?高虎ではなかった真の功労者
続きを見る
-

羽柴秀長の家臣団|大和入り後の筆頭家老は藤堂高虎ではなかった
続きを見る
-

秀長を脅す興福寺の僧侶・磐覚は実在したのか?豊臣兄弟第37回史実解説
続きを見る
参考文献
- 大和郡山市『史跡郡山城跡保存活用計画』
- 平山優執筆・監修『豊臣秀長 秀吉を支えた生涯』(2026年1月 サンニチ印刷)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)




