なんて調子で戦国ゲームでもお馴染みの二人。
眼光鋭いキャラで描かれがちな片倉景綱については、伊達政宗の兄貴分として、あるいは軍師的存在として印象深いでしょう。
大河ドラマ『独眼竜政宗』世代の方には西郷輝彦さんが演じていた懐かしさもあるかもしれません(伊達成実は三浦友和さん)。
各種コンテンツでも、今なお人気を博する片倉景綱。
史実では一体どんな武将だったのか?
実際に政宗の兄貴分的存在だったのか?
元和元年(1615年)10月14日が命日となる景綱の生涯を振り返ってみましょう。
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片倉景綱 神社に生まれ姉・喜多にしごかれる
片倉景綱は、現在の山形県置賜郡にあった米沢八幡宮の息子として生まれました。
父は片倉式部景重で、母は元沢刑部真直の娘。
元の身分が低い上、次男だったので幼い頃は結構苦労しています。
両親を相次いで亡くし、親戚の家に養子に行ったらその家に実子が生まれて戻されるなど、並みの子供であればグレていてもおかしくない不運ぶりでした。
それが後に伊達政宗の片腕にまで登りつめたのは、歳の離れた姉・喜多(きた)の教育の賜物であるといわれています。
20歳ほど離れていたと言い、喜多は文字通り母親代わりとなって景綱をビシバシ鍛えました。
戦国の女性によくあることで、彼女も兵書や武道にも通じていた女丈夫で、後に政宗の乳母を任されているほどの人です。
実の弟ともなればそりゃもう厳しかったと思われます。
後々まで手紙のやり取りなどもしていたらしいですし、坂本竜馬と姉の坂本乙女さんの関係によく似てますね。
そして景綱10歳のとき、喜多が政宗の乳母に任じられた後「弟(景綱)のほうも出来がいいってよ」ということで、政宗のトーチャン・伊達輝宗の近侍として仕えるようになりました。
大河ドラマ・独眼竜政宗では、輝宗が景綱の笛の音を気に入って召抱えるという風流な流れになっていましたね。
いつ頃そんな芸を身につけたのかははっきりしていないのですが、彼は笛の名手としても有名だったので、そこをうまく取り入れた名シーンでした。
お父ちゃん輝宗の眼力が素晴らしい
輝宗は、息子・政宗の陰に隠れてしまって全く目立ちませんが、景綱のように身分の低い中から人材を見つけ出すことがとても得意な人でした。
他にも修験者だった遠藤基信(もとのぶ)など、幅広い層から家臣を召抱えています。
この基信がさらに「あの子を若様の側役にしたら、きっと良い働きをしてくれますよ」と推してくれたので、景綱は政宗の側近として働くことになりました。
景綱19歳、政宗9歳のときのことです。
二人が米沢盆地のどこにいたのかは長らく不明でした。
しかし近年、地元の山形県立うきたむ風土記の丘考古学資料館らによる調査で、同県高畠町(米沢市の北)に幼い政宗の館があることが判明しました。
両親の住む米沢城から離れたところで、まさに「親子」そして「兄弟」として深い関係を結んだのでした。
これ以降、景綱は主な戦での活躍、政治上の駆け引きなど多方面で活躍し、政宗の右腕となっていくわけです。
が、彼のスゴイところはそれだけではありません。
政宗以上に容赦ない!?
幼少期から主君を見知っているせいか。
片倉景綱は、政宗以上に容赦がないエピソードが残されています。
政宗も小手森城の撫で斬りなど残虐とも取れるエピソードがいくつかありますが、景綱の場合は流血沙汰とは違った意味でエグさが際立ちます。
政宗の右目をえぐった話とかありますが、その辺は既にご存知の方も多そうなので、ここではその他のエピソードを見て参りましょう。
政宗は脇腹に腫瘍ができて苦しんでいました。
この頃は外科的な手術といえば、焼いた鉄の棒で患部を焼いてしまうこと。痛いどころじゃありませんね。
さすがの政宗も自分で押し当てることができませんので、景綱に頼みました。
すると、なにを思ったのか景綱は自分のなんでもないももに棒を押し当てました。
ジューーー!
「うん、痛いけど、死にはしないね」
そう判断した景綱は政宗の患部を焼くのです。
このヤケドで政宗は30日の重症となりましたが、景綱のほうがむしろ重く、全治2か月でした。
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