歴史教科書では味わえない最新の考古学や歴史学の研究成果を盛り込んだ日本古代史の魅力をぎゅっとまとめました。
戦国時代も幕末もいいですけど、冬休みには、「古くて新しい」魅力的な古代史の旅をしてみませんか?(脳内で)
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第一部:弥生時代から邪馬台国へ
秘密① 町内会長から教祖となった弥生時代の王たち
出雲では弥生時代中期の終わりに突然、それまで信仰の対象だった青銅器の剣や矛などが地中に埋められます。
代わって墓の規模が大きくなります。
これは信仰の対象がモノから神格された王に移ったことを意味します。
ある意味で弥生末の邪馬台国以上に日本史上の画期でした。
秘密② 卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった!?
卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王とは限りません。
どんな辞書にも卑弥呼は邪馬台国の女王と書かれていますが、実は原典である『魏志倭人伝』には、そんなことは一言も書いていません。
倭国、邪馬台国、卑弥呼の関係は、現代のアメリカ合衆国に置き換えるとすっきり分かります。
アメリカ合衆国は倭国、テキサス州やカリフォルニア州がそれぞれ立法機能を持つように、倭国も各地のクニグニの集合体でした。
邪馬台国もそうした一地域であるクニの一つでした。
秘密③ 邪馬台国は九州から大和へ遷都した倭国の新都だった
九州説と畿内説に分かれる邪馬台国論争に終わりはないように見えます。
しかし、ある見方で『魏志倭人伝』を読むと、両方の説を矛盾なく説明できるのです。
キーワードは、「遷都」。
あなたも一緒に邪馬台国の謎を解いてみませんか?
魏志倭人伝は卑弥呼の2代あとの王(イヨ女王)の時期に中国で編集されたものです。つまりこのころの日本には2人の女王がいたのです。
倭人伝で、邪馬台国は「女王の都する場所」とされていますが、この「女王」は卑弥呼とはかかれていません。
実は卑弥呼が邪馬台国の女王と書かれている記述は一切なく、あくまで卑弥呼は「女王国の王」としか認識されていないです。
つまり、前代の王である卑弥呼は九州に、その2代あとの女王は大和=邪馬台国とすることで矛盾が解消できるのです。
秘密④ 本当はグリム童話よりも怖い日本の伝説
「とおりゃんせ、とおりゃんせ」の童謡をご存じでしょうか?
この童謡の原型となった伝説が『播磨国風土記』にあります。
そこには10人の旅人がくれば5人を殺し、20人が通れば10人を殺すおそろしい神が描かれています。
この伝説はただの古い古い言い伝えではありません。
今も残る神社が、史実を反映したその秘密を物語りはじめます。
第二部:古墳時代
秘密⑤ 新生ヤマト王権はハイブリッドカー?
ヤマト王権とは、難しく言うと、奈良時代にできた『日本書紀』によって正統性を与えられた政治組織のことを言います。
そしてそれは前方後円墳の時代とかなり重なります。
ヤマトの象徴である前方後円墳は、実は日本各地の文化を持ち寄ったものだったのです。
弥生時代末の各地の有力勢力のアイデンティティが合体した「最強のロボ」といえるのです。
ところが、北九州だけがなにも持ち寄っていません。
それでは九州が持ってきたモノとはなんだったのでしょうか?
形としては残らないもの、それは名前だったのではないでしょうか。
秘密⑥ 前方後円墳をデザインしたのは卑弥呼の親戚・壱与?
前方後円墳という味気ない名称は、もちろん古代人がそう呼んだのではありません。
江戸時代になって命名されたものです。
この日本独自の形は、何がもとになっているのか。
色々な説がありますが、不老不死の世界である神仙世界を具現化したものという説が有力です。
前方後円墳は神仙世界にそびえる「壺」の形をした蓬莱(ほうらい)山というわけですね。
この世界に例のない世界観を作りだした天才は誰なのか?
著者は、卑弥呼の2代あとの女王・壱与(いよ)を候補にあげますが、神話の神々の中に隠れているかもしれません。
みなさん、候補者(神?)に気付いたらぜひ教えてください。
秘密⑦ 世界遺産候補の「仁徳天皇陵」は「仁徳天皇陵」ではない!?
世界一大きな墓として世界遺産の候補となっている「仁徳天皇陵」。
実は埋葬されているのは仁徳天皇ではない可能性が高い。
「大山(だいせん)古墳」と呼ばれているこの古墳には誰が眠っているのでしょう?
答えは反正天皇。
知名度の低い天皇ですから、ピンと来ない方もいらっしゃるはず。
そもそも仁徳天皇や反正天皇の実在が証明されているわけではなく、少なくとも宮内庁の指定には矛盾があることは事実です。
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