一度、悪癖が身についてしまうと、それを正すのは至難の業。
国レベルの話だと改善できないまま時代が進んでしまい、様々な争いを呼んでしまう――その代表例が【人種差別】でしょう。
1887年(明治二十年)2月8日、アメリカでドーズ法という法律が施行され、インディアンの土地その他諸々が奪われることになってしまったのもその一例です。
当時というか、このずっと前から欧米諸国で有色人種への差別がすごかったことは皆さんご存知の通りですが、法律で正当化されていたからこそ根強くなってしまったんですね。
まさに「理不尽」としかいえない話です。
ネイティブ・アメリカンではなくインディアン
特にアメリカ合衆国の歴史を見るとき「インディアン」との関係は切っても切れません。
直訳だと「インドの人」になってしまうので、個人的にはこの呼び方も違和感があるのですけど、近年の国際会議でご当人達から「インディアンと呼んでほしい」という発言があったそうなので、こちらで統一させていただきますね。
逆に「ネイティブ・アメリカン」のほうがお嫌らしいです。
意味が広すぎるのと、差別されてきたことを隠蔽するかのようなニオイを感じるのだとか。
日本人にとってはあまり馴染みのない世界なだけに、気をつけないといけませんね。
呼称の話はそこまでにしまして、本題に入りましょう。
西部へ拡張する法律なんですけど、何か?的な…
当時のアメリカはいわゆる”西部開拓時代”でした。
南北戦争が終わってひとまず一つの国の形になり、奴隷制が廃止されたものの問題は山積み……そんな感じの時代です。
そしてその中の一つに、インディアンとの関係がありました。
問題の大元は至ってシンプルな話で、自分達の勢力圏をアメリカ西部に広げたい白人達と、先祖代々の土地を守りたいインディアンとの衝突です。
そこで「法律でインディアンの土地を奪い、白人が自由に使えるようにしよう!」ということでドーズ法が作られたのでした。
後から来ておいて暴力を振りかざし、「ここは俺達の土地だから俺達の言うことを聞け!」とかまさに俺様何様白人様ですね。
そんなに優れた民族だというなら、寛容な心でもって現地の人々にも接してもらいたいものです。相手を人間と思ってないからこそそういうことをするのでしょうが。
生活スタイルまで色々と口を出され
一口にインディアンといってもたくさんの部族があり、生活基盤や習慣も異なります。
しかし、この法律によって土地を奪われるだけではなく、そうした生活のあらゆる面において口を挟まれることになってしまいました。
例えば、「男性は外で働き、女性は家を守ること」なんてのはこの法律で押し付けられたものです。
インディアンの中には「男性は狩猟、女性は農耕」というスタイルで生活してきた部族もあったのに、一から十まで余計なお世話ですね。
一応、市民権は与えられたものの、そもそもそうした権利という概念自体が白人のものであって、インディアンたちが望んで手に入れたものではないのですから、これまた要らんお節介というものです。
しかし、この頃までに白人達は武力であっちこっちのインディアン部族をブッコロしまくっていたので、大人しく従わなければどうなっていたかわかりません。
今のように情報が即座に手に入るわけではないので、当時どのくらい知られていたかというと疑問符がつきますが、血を残すという意味では正解でした。伝統と文化を破壊された上でのことでしたが。
差別が減り、消滅することを願うばかり
この手の「白人は素晴らしい! 完全無欠! だからいろいろ与えてやろう!」的な考え方って、本当にどうしようもないですね。
もちろんそんな人ばかりではありませんが、白人至上主義な方は未だに存在していますし、いくつか過激な団体もあるようですしね。
その一例として、とある国では国名になぞらえて”白豪主義”なんて言い方をしていたりします。とはいえ、日本やアジアからも留学生がたくさん行っていたりするので、あくまで国家としてではなく民間の一部のようですが。
これまた私見ですが、「差別しないと差別される」「やられる前にやれ」という意識が根底にあるような気がするのですけど、さらにその奥には「そうしないと自分がやられそうで怖い」といった怯えがあるのかもしれませんねえ。恐怖で動けなくなる人もいれば、逆に攻撃的になる人もいますし。
そう考えると、哀れむべきは差別をしている側なのかもしれません。
小説やドラマなんかでも”悪役の事情を知って人質が同情したら、悪役が泣き出した”なんてシーンがたまにありますし。てか、最近は開き直るほうが多いですかね。
人種だけでなく思想や身体などあらゆる面において、これからの時代は差別が減っていくように願いたいものです。
長月 七紀・記
【参考】
ドーズ法/Wikipedia