熊本城の戦い(西南戦争)

幕末・維新

熊本城の戦い(西南戦争の緒戦)で西郷が痛恨の敗北~会津の山川も駆けつけ

2025/02/21

明治十年(1877年)2月22日、西南戦争における熊本城の戦いが始まりました。

そもそも、なぜ西南戦争は始まったのか?

という疑問は以下の記事に譲り、

西南戦争開戦のキッカケ
西南戦争が起きたキッカケ「視察」を「刺殺」と勘違いしたってマジ?

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戦場に目を向けますと、西郷らは海上ではなく陸路で薩摩から北上。

そこに立ちはだかったのが熊本城であり、このとき既に明治政府のものでした。

陸軍の各種施設や熊本鎮台という役職があったため、これより五ヶ月ほど前に起きた不平士族の反乱【神風連の乱】でもターゲットになっています。

そちらは一日で鎮圧されましたが、今度は屈強な「薩摩隼人」の登場です。

しかし熊本城もまた築城名人・加藤清正の偉大な遺産ですから、この戦いはある意味、名勝負でもありました。

実際に戦う人たちにとってそんな美しい表現は気に入らないかもしれませんが、後世の一個人としてはそう思います。

御託はさておき、そろそろ戦いの経過を見ていきましょう。

西南戦争錦絵/国立国会図書館蔵

 


ヤル気満々の薩摩反乱軍>城方の士気だったが……

西南戦争が始まったとき、城方=政府側の士気はお世辞にも高いとはいえない状態でした。

神風連の乱は前述の通り期間としては短かったものの、一部の兵舎を全焼させたり、多くの官憲が殺傷されていたからです。

そこから一年も経たないうちに、士気も準備も万端な薩摩隼人たちがやってくるというのですから、そりゃあ戦う前から嫌気が差すに決まっている。

当時の熊本鎮台長官・谷干城(たにたてき)はこの状況をよく理解していました。

このまま打って出れば、味方の負けは必死。

もし、そうなったら、できたばかりの明治政府そのものも危うくなる――。

彼は、薩摩軍が到着する前に篭城戦を決意したのです。

熊本鎮台のメンバーたち/wikipediaより引用

熊本城内は約4,000人。

対する薩摩軍は13,000人ほど。

せっかくの城があるのに、打って出ていくには危険すぎます。

しかもバリバリ武士の薩軍と違い、城方の兵は多くが農民出身。

仮に篭城すれば、守る方が有利であり、攻め手は数倍以上の人数が必要だと言われておりますから、熊本城での籠城戦であれば少なからず粘れる見込みは十分ありました。

更には、後に日露戦争の英雄の一人となる児玉源太郎も谷の補佐をよく務めました。

また、西郷と親しく当初は薩摩サイドでは?と思われた樺山資紀(かばやますけのり)も政府軍として健闘します。

そのため城方は何とかもちこたえました。

 


3日間全力で攻撃するも埒あかず兵糧攻めに

薩摩軍から見ると、21日に来て24日まで三日間の直接攻撃をしても埒が明かなかったという感じになります。

そこで真正面から攻めきれないと見ると、兵糧攻めに切り替えました。

敵が多いということはそれだけ食料も必要なわけですから、時間がかかることを厭わなければ、真正面からぶつかる必要はないわけです。

着眼点は良かったかもしれません。

しかし、簡単にはいきません。

明治政府軍は後詰を送ってきます。西郷軍を蹴散らすために、別方面から新たな軍団を送り込んできたのです。

薩摩軍は3,000人を熊本城に残し、政府軍に備えるべく北へ向かいましたが、こうなるとやはり数で劣るほうが徐々に押されていく。

とはいえ、ただダラダラ長引いたのではなく、時には薩摩側からの砲撃もあったため、やはり城方も難儀したようです。

数十~数百人規模の犠牲が出た戦闘もありました。

 

山川の入城! 守備側は一気に活気づく

戦況が大きく動いたのは【田原坂の戦い】でした。

政府軍と激戦を展開したものの、薩摩軍は敗北。

この戦いを経て熊本城に迫った政府軍に秘密兵器のような人物がいたからです。

会津の山川浩です。

山川浩/wikipediaより引用

会津戦争では、敵に包囲された鶴ヶ城へ入城するため、『彼岸獅子』という会津の伝統芸能を踊りながら敵の目をくらまし、まんまと突破した――そんなマンガのような経歴を持つクソ度胸な武士です。

これまた詳細は以下の記事にお譲りしますが、

敵に囲まれた城へ入るため“獅子舞”で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ

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この山川浩が「鬼の官兵衛」と恐れられた佐川官兵衛と共に熊本城へ入ったのです。

他にも元会津藩士らが参加しており、彼らは戊辰戦争での恨みもあって戦意は十分。

守備側の谷らとしては、これ以上ない味方が到着したのです。

水や食料、医療品も持ち込まれ、もはや勝負は決まったようなものでした。

 


西郷は清正に負けたのか

結局、熊本城の戦いが本当に終わったのは、薩摩軍がやってきてから約二ヵ月後、4月14日のことでした。

西郷隆盛はこの後、薩摩に戻り、9月に自害するのですが、よもや農民兵だらけの熊本城を相手に精鋭武士の集まりだった薩摩軍が敗れるとは考えにくかったでしょう。

もしも「熊本城の戦いは薩摩側がやはり有利だ」なんて情報が広まっていれば、他の不平士族たちも集まってきた可能性もありましょうし、全国に飛び火したかもしれません。

そういう意味では少々強引かもしれませんが、西郷は築城主の加藤清正に負けた――とも言えるかもしれませんね。

加藤清正/wikipediaより引用

一方この頃、熊本近辺での戦いでデカ過ぎるトラウマを作った人もいました。

これまた日露戦争の有名人である乃木希典です。

彼はこのとき既に一隊を率いる立場になっていたのですが、薩摩軍との攻防で軍旗を奪われてしまったということがありました。

 

自殺を計るほどの心理的ダメージを負った乃木希典

軍隊にとって旗は誇りの象徴のようなもの。

それを敵に奪われるということはとてつもない不名誉です。

それまでの働きは決して悪くなかったのですが、元々責任感が強く真面目な乃木ですから、西南戦争の総司令官だった山県有朋(山縣有朋)に直接謝罪の手紙を書いています。

山県有朋/国立国会図書館蔵

山県も事情がわかっているので、

「処罰はしないし、戦なんだから気にすんな」(超訳)

という返事を著します。

乃木の自責は止まず、何度も自殺を図ったそうです。

それを児玉が見つけて止めたこともあったとか。今で言うPTSDやASDに近い状態でしょうかね。

源平や戦国時代の戦は遠い時代のこと過ぎてこういうことを考える機会はあまりないですけれど、明治あたりになると生々しさが増すというか、また違った重みがありますね。


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【参考】
国史大辞典「西南戦争」
伊東潤『城を攻める 城を守る (講談社現代新書)』(→amazon
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
熊本城公式ホームページ(→link
西南戦争/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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