江戸が大都市になったのは、徳川家康が関東に移封されてから。
むろん、それ以前からも諸勢力は存在していて、例えば江戸城を最初に築いた太田道灌などは戦国ファンの皆様にはお馴染みの存在でしょう。
しかし、この辺の話が日本史の授業で取り上げられることはほぼなく、難関私大の問題でも見かけないようです。
事情を鑑みると、あまりに複雑な情勢からだと思われますが、なぜ関東はそんなことになってしまったのか。
【応仁の乱】に先駆けて、
鎌倉公方(足利一門の関東担当者)
vs
関東管領上杉家(足利本家の部下)
の争いが続いたことがまず一つ。
そして、それぞれの勢力に地方国衆が味方についたり離れたり、同じ一族でも協力したり仲違いしたり。
とにかく落ち着かなかったことがもう一つ。

北条氏綱/wikipediaより引用
そんな関東の混乱で台頭してきたのが北条氏(後北条氏)でした。
グダグダの隙をつき関東の雄・北条氏が台頭
新興勢力だった後北条氏は、今川家の静岡から飛び出すようにして現在の神奈川県へ。
関東一帯を支配下に収めるには、いささか南西の位置にありました。
後に北条早雲と呼ばれる家祖(伊勢宗瑞)から始まったこの後北条氏。
関東のあっちこっちの大名・国衆たちと争います。
そんな戦の一つが、大永六年(1526年)11月12日に起きた、鎌倉・鶴岡八幡宮の戦いでした。
このときの後北条氏・当主は北条氏綱。
お相手は千葉の大名・里見氏(里見義豊・さとみよしとよ)でした。
里見の本拠地は千葉県ですので、房総半島から三浦半島までご苦労なことですが、船を使えばすぐですしね。
例えば横須賀から富津あたりの最短距離を結ぶと約7km程度しかありません。

横須賀と富津の最短距離/Googleマップより
実際、里見軍が千葉から鎌倉へ攻め込んだときは数百隻の大船団だったそうですから、まさに命運をかけた戦いだったでしょう。
これでド派手な海戦もセットで行われ、どっちかの敵将が劇的に戦死してていたら、さらにロマンが増して全国的に知られる合戦になっていたかもしれません。
【厳島の戦い】なんかもそうでしょうか。
ともかく三浦半島に上陸した里見軍は鎌倉へ向かい、北条方の船に石や材木を投げるなどして攻撃を加えました。
※以下は「厳島の戦い」関連記事となります
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厳島の戦い1555年|毛利元就が陶晴賢を破って中国地方の覇者へ躍進
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「やばい!コッチが悪者にされちゃう!」
鎌倉といえば?
真っ先に大仏が思い出され、次に鶴岡八幡宮が頭に浮かんでくるでしょう。
このときもそうでした。
戦乱の中で、里見軍は鶴岡八幡宮に乱入するわ、宝物を奪うわ、建物を壊す&燃やすわで、何をしに来たのかわからなくなるような有様だったといいます。
本当は、もう少し北にある北条家の拠点・玉縄城を、上杉朝興の軍とともに挟み撃ちにする予定だったそうです。
上杉朝興は、娘が武田信玄の最初の夫人だったことで知られますね(ただし、子を出産と同時に死亡)。
ともかく鶴岡八幡宮に構ってるヒマはなかったのです。
そして……里見軍自身もそう思い直したのでしょうか。
鶴岡八幡宮に戦火が燃え移るのを見た里見軍は、「やっべ、あそこ燃やしたらこっちが悪者にされる! てか、源氏の神様に祟られるぞ」と、急遽兵を引いて玉縄城へ向かうのでした。
そもそも乱入した時点で気づくだろ……とは思うのですが、他にも鶴岡八幡宮付近で何度か合戦をしているんすよね。
まぁ、こういうときって大将が止めようとしても兵はすぐに止まれませんから、ある程度放置して、適当なタイミングで引き上げさせるつもりだったのかもしれません。
足軽の多くは、こうした【分捕り】目的で来ていたりしますし。
そこに火の手が見えたので、慌てて予定を早めた可能性もありそうです。
元をたどれば源義重から源義家へとつながる里見氏。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用
ご先祖様ゆかりの神社を焼いてしまったことが相当打撃になったらしく、その後、大した戦果を挙げずにさっさと引き上げてしまっています。
数百隻も動員したのに……。
鶴岡八幡宮は避けられない
そもそもなぜ、鎌倉を通ったのでしょう?
鎌倉から上陸して玉縄城を目指そうとすれば、どう考えたって鶴岡八幡宮は避けることができません。
地図を見ていただくのが一番わかりやすいのですが、鶴岡八幡宮から玉縄城までは、現在の道路で6km程度しか離れていないのです。
※赤い拠点が鶴岡八幡宮で、黄色の拠点が玉縄城(両者は直線距離で4km程度)
まあ、数百隻の大船団だっただけに、船着き場の確保も大変だったのでしょう。
江の島辺りでも良さそうな気がしますが、西へ行けば行くほど北条勢力圏の色は濃くなっていきますし、北条氏としても、そういった海域には見張りを置くなどの警戒はしていたはずです。
「鶴岡八幡宮再建しようぜ!」
川中島のハイライトになったといわれている八幡原にしても、八幡神に縁のあるところは戦が絶えません。
武家の神様なので当たり前といえば当たり前なのですけれども、にしても、鶴岡八幡宮は貧乏くじ引き過ぎな気がします。
源実朝の暗殺事件。
戦国期においては度重なる合戦。
関東大震災での社殿倒壊。
近年ではシンボルだった大銀杏が倒れてしまったり、度々災難の舞台になってきました。
一方で、それでも生き永らえているというのも凄まじい話ですよね。
後に、北条氏が主導して「鶴岡八幡宮再建しようぜ!」と言い始めたとき、里見氏も協力せざるを得なくなってます。
まぁ、八幡信仰の数が圧倒的に多いのが一番の理由かもしれませんが……。
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【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
鶴岡八幡宮の戦い/wikipedia







