江戸が大都市になったのは、徳川家康が関東に移封されてから。
むろん、それ以前からも諸勢力は存在していて、例えば江戸城を最初に築いた太田道灌などは戦国ファンの皆様にはお馴染みの存在でしょう。
しかし、この辺の話が日本史の授業で取り上げられることはほぼなく、難関私大の問題でも見かけないようです。
事情を鑑みると、あまりに複雑な情勢からだと思われますが、なぜ関東はそんなことになってしまったのか。
【応仁の乱】に先駆けて、
鎌倉公方(足利一門の関東担当者)
vs
関東管領上杉家(足利本家の部下)
の争いが続いたことがまず一つ。
そして、それぞれの勢力に地方国衆が味方についたり離れたり、同じ一族でも協力したり仲違いしたり。
とにかく落ち着かなかったことがもう一つ。
そんな関東の混乱で台頭してきたのが北条氏(後北条氏)でした。
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グダグダの隙をつき関東の雄・北条氏が台頭
新興勢力だった後北条氏は、今川家の静岡から飛び出すようにして現在の神奈川県へ。
関東一帯を支配下に収めるには、いささか南西の位置にありました。
後に北条早雲と呼ばれる家祖(伊勢宗瑞)から始まったこの後北条氏。
関東のあっちこっちの大名・国衆たちと争います。
そんな戦の一つが、大永六年(1526年)11月12日に起きた、鎌倉・鶴岡八幡宮の戦いでした。
このときの後北条氏・当主は北条氏綱。
お相手は千葉の大名・里見氏(里見義豊・さとみよしとよ)でした。
里見の本拠地は千葉県ですので、房総半島から三浦半島までご苦労なことですが、船を使えばすぐですしね。
例えば横須賀から富津あたりの最短距離を結ぶと約7km程度しかありません。
実際、里見軍が千葉から鎌倉へ攻め込んだときは数百隻の大船団だったそうですから、まさに命運をかけた戦いだったでしょう。
これでド派手な海戦もセットで行われ、どっちかの敵将が劇的に戦死してていたら、さらにロマンが増して全国的に知られる合戦になっていたかもしれません。
【厳島の戦い】なんかもそうでしょうか。
ともかく三浦半島に上陸した里見軍は鎌倉へ向かい、北条方の船に石や材木を投げるなどして攻撃を加えました。
※以下は「厳島の戦い」関連記事となります
厳島の戦いで毛利軍の奇襲が炸裂! 陶晴賢を破って元就が中国地方の覇者へ
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「やばい!コッチが悪者にされちゃう!」
鎌倉といえば?
真っ先に大仏が思い出され、次に鶴岡八幡宮が頭に浮かんでくるでしょう。
このときもそうでした。
戦乱の中で、里見軍は鶴岡八幡宮に乱入するわ、宝物を奪うわ、建物を壊す&燃やすわで、何をしに来たのかわからなくなるような有様だったといいます。
本当は、もう少し北にある北条家の拠点・玉縄城を、上杉朝興の軍とともに挟み撃ちにする予定だったそうです。
上杉朝興は、娘が武田信玄の最初の夫人だったことで知られますね(ただし、子を出産と同時に死亡)。
ともかく鶴岡八幡宮に構ってるヒマはなかったのです。
そして……里見軍自身もそう思い直したのでしょうか。
鶴岡八幡宮に戦火が燃え移るのを見た里見軍は、「やっべ、あそこ燃やしたらこっちが悪者にされる! てか、源氏の神様に祟られるぞ」と、急遽兵を引いて玉縄城へ向かうのでした。
そもそも乱入した時点で気づくだろ……とは思うのですが、他にも鶴岡八幡宮付近で何度か合戦をしているんすよね。
まぁ、こういうときって大将が止めようとしても兵はすぐに止まれませんから、ある程度放置して、適当なタイミングで引き上げさせるつもりだったのかもしれません。
足軽の多くは、こうした【分捕り】目的で来ていたりしますし。
そこに火の手が見えたので、慌てて予定を早めた可能性もありそうです。
元をたどれば源義重から源義家へとつながる里見氏。
ご先祖様ゆかりの神社を焼いてしまったことが相当打撃になったらしく、その後、大した戦果を挙げずにさっさと引き上げてしまっています。
数百隻も動員したのに……。
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