天正10年(1582年)6月2日は本能寺の変が起きた日。
このとき死に追い込まれた織田信長は一体どんな人物だったのか?
史実ではいかなる記録が残されているのか?
かつてのフィクション作品では魔王のごとく描かれることも多かったが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』がそうであったように、以前と比べてその評価は変わりつつある。
例えば那古屋城(なごやじょう)生まれとされていたのが、現在では勝幡城(しょばたじょう)だと分析されたり。
「鉄砲の三段撃ち」など存在していないとされたり。
あるいは朝廷に対しても「普通に保護してるじゃん……」という一面がクローズアップされたり。
今まで描かれがちだった【とにかく怖い信長像一辺倒】ではなくなっきている。
では、信長の生涯とはいかなるものだったのか?
まず5段階に分けてザックリまとめるとこうなる。
①尾張時代
1552-1560年
②美濃へ進出
1561年-1567年
③上洛と包囲網
1568年-1580年
④天下統一事業
1573年-1582年
⑤本能寺の変
1582年
西暦で表示させていただくと、まず1534年に生まれ、家督を継いだのが1552年。
その頃は身内のゴタゴタなどがあって尾張一国すらまとめられていない状況だったが、1560年【桶狭間の戦い】で今川義元を破ると、隣国・美濃の攻略を開始。
京都への上洛をキッカケに全国の敵と戦い続ける――戦(いくさ)だらけの人生だった。
まさに波乱に富んだ天下人・織田信長49年の生涯を振り返ってみよう。
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織田信長 1534年に勝幡城で生誕
織田信長は1534年(天文3年)5月28日、尾張(現在の愛知県西部)で生を受けた。
かつては11日(あるいは12日)とされたが、昨今の研究から28日が有望という見方がでている(詳細は記事末に)。
清須三奉行の一人で、元々の身分はそう高い方ではない。
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母は土田御前(どたごぜん・土田政久の娘)。
彼女は謎多き人物である。
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信長が生まれた場所は、かつて那古野城(なごやじょう・現名古屋城内)とされてきたが、当時は今川家に押さえられていたことが近年の書状解析で明らかになり、勝幡城(しょばたじょう・愛西市)での出生が確実視されている。
【城】
紫色=勝幡城
黄色=那古屋城
赤色=稲葉山城(後の岐阜城)
織田信長は次男で、幼名は吉法師だった。
正妻から生まれた最初の息子であり、生誕から嫡男として育てられている。
側室より正室の子が優先されるのは当時としては珍しいことではなく、実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)で元服し、那古野城主となると、1552年、父・信秀の死(流行病)によって同家の家督をスンナリ継いでいる。
相続自体には何も障壁がなかった。
教育係・政秀と弟・信勝(信行)の死
その後、信長は「守護の斯波氏を守る」との大義名分で、尾張の中心だった清須城を事実上占拠。しばらくの間は、身内との権力争いに忙殺される。
実はこのころの織田家は、尾張一国をまとめることもできないでいたのだ。
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それは当時の織田信長が“うつけ者”として、周囲から軽んじられていたことも無関係ではないだろう。
例えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話で、信長本人を礼賛する『信長公記』(著・太田牛一)に記されている。
そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもってたしなめる)したというのもよく知られた話だ。
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では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?
というと、実際はそれほどでもない。
当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。
現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い織田信長であるが、やはり後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。
平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげんそうおん)にその霊を弔わせた。
ちなみに沢彦もまた織田信長の教育係であった。
1557年には弟の織田信勝(織田信行)を病気と称して呼び出し、謀殺しているが、これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではない。
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信勝はその前にも兄・織田信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。
実際、かつて信勝派であった柴田勝家は織田信長のもとで出世している。
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なお、その前年(1556年)には、妻・帰蝶(濃姫)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、織田信長が救援に向かっていたことは有名な話だ。
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実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。
ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。
桶狭間
最近の研究では、父の信秀は三河国西部(愛知県東部)までを支配していたことがうかがえる。
しかし、信秀の急死で織田家内が内乱状態となり、織田信長は三河どころか尾張の維持すら危うくなっていた。
かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。
1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。
従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が奇襲で成功させた――と考えられてきた。
上洛(京都へ上ろうとすること)中だった今川の大軍に気づかれることなく、大きく迂回し、桶狭間で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な攻撃で首をうち取った勝利とされてきたのだ。
3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがない。ならば奇襲と考えた方が自然だと思われた。
が、この奇襲説は戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えたものであり、最近は疑問符が投げかけられている。
そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではない。尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されたため、その救援(後詰め)にやってきたのだ。
要は、国境エリアにおける、単なる城の奪い合いである。
もしも今川が上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに許可を得ねば不可能である。
しかし、今のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は確認できていない。
この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もないだろう。
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その他、桶狭間の戦いについては、複数の説が唱えられているが、いずれも決定的とは言い切れず、未だ定まっていない。
そんな最中、城攻めの観点から注目されているのが城郭考古学者・千田嘉博氏の説だ。
千田氏が『信長の城』(→amazon)で提示したのは正面奇襲説。
三行で説明すると。
①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。
②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。
③現地に詳しい織田信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた
これまでの諸説は『信長公記』という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきた。
が、千田説は城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせて3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。
いずれにせよこの戦いによって見える【信長像】が大きく二つある。
一つ。
織田信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプだったことだ。
だからこそ少ない部下を率いて今川軍へ攻めこむことができたのであり、最大の勝因にもなった(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。
もう一つ。
自分の能力を過信しない謙虚さを持ち合わせていることだ。
織田信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことを認め、その後、奇襲作戦は使っていない。
自分が前には出る。
しかし無謀な勝負はしない。
今川軍を打ち破った成功体験を、あっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。まさに情熱と冷徹さを持ち合わせているのである。
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かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全には統治できていない状況だった。
小牧山城と岐阜城
家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。
実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことだ。
たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。
関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。
戦略に応じて本拠地を変える――。
過去の成功を一考だにしない――。
いずれも織田信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。
その取っ掛かりとして本人に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。
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普通、織田信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。
あまり知られていない小牧山城がなぜ? と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと……。
①30歳の織田信長が築いた最初の城郭
②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性
③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない
平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。
本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、織田信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。
小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。
実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。
極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。
かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。
このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から息子の斎藤義龍を経て、孫の斎藤龍興が当主となっていた。
道三時代は友好だった関係も、義龍が軍事クーデターを起こして当主になってからは反織田に切り替わっていて、織田方の犬山城など尾張北方を侵食。
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清須から小牧山城への移転は、これに対応する攻守の政策決断でもあった。
しかし、その最中に義龍が急死。
幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、織田信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに織田信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。
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この城と城下町を「岐阜」※と改名して本拠地を移転したのであった。
なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。
※ 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在していた。
岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味。
例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。
第一次信長包囲網
岐阜へ本拠を移動させた織田信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。
自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。
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むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には織田信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。
いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた織田信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。
越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。
なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?
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